ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4436, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか −6
ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
* ルート5: 自己とは定義の結果だと理解する道(自他不分離の道)
≪ー自己という概念を取り去ってみるとー 意識は身体をコントロールする主体ではなく、世界を観測し世界と相互作用する
身体Aという媒介の動作をモニターする装置に過ぎない。僕たちの心は、そもそも、どの身体に宿ってもいいのではない。
一つの身体に、一つの「こころという幻想」がセットになっているだけ。ただそれだけのことだ。どんな人間にも、心は一つ。
あなたの心は、よくSFにあるようにコンピューターに乗り移ったり、オカルトのように身体を抜け出したりできるものではなく、
脳の計算によって作られた単なる擬似体験劇場に過ぎないのだ。そう考えれば、特に身体Aを「自分の身体」と捉える必要はない。
・・・ 本書を読んでいる「クオリアA」は「あなたの心」ではない。何かを感じているだけの存在だ。たまたま、これまでは
「あなたの身体」と呼んでいた「身体A」と接続されていて、「身体A」が世界と相互作用した結果を観劇しているだけだ。
つまりクオリアAから見ると、身体Aもそれ以外の世界も同じくクオリアAの観劇対象なのであって、所有物ではない。
もはや身体と外界、自己と他者、主体と客体、という分け方は意味を持たない。意味としてつながり合って相互作用しているのみ。
クオリアAが観劇できる範囲は、身体Aの五感が情報取得する範囲まで。つまり、身体Aは、移動式観測装置だ。
これまでの世界で、あなたと他人の同意とか共感とか呼んでいたものは、身体Aを介した他者の自己化だ。
いや、自己の他者化と言うべきか。自己という概念はないので、主客合一、自他非分離と言うべきである。≫
≪ー私とは、仮構された「自己」というシステムでしかないー もちろん、この楽しく生き生きした世界を観劇できなくなる
ことはとても残念だが、それだけだ。「私の死」ではなく、「一つの観劇システムの終了」だ。つまり、仮構された「自己」
という概念を解体してみると、「死ぬのが怖い」という概念は存在できない。「死ぬのが怖い」という概念は、「自己」という
幻想に付随して作り出された幻想に過ぎないのだ。比喩的に言えば、身体Aとは窓だ。一つの窓を通して世界を見る装置だ。
世界は、いろいろな身体を通して見られていた。また、世界では、それらの身体によるインタラクションも行われていた。
これからも今までと同じように、行われていく。おびただしい数の身体たちによつて。違いは、おびただしい数の身体の中の
たった一つであるところの身体Aが機能を停止した、ということだけだ。それに伴い、役目を終えた、身体Aを介した世界観測者
であるクオリアAもまた役目を終えた。ただそれだけ。 もう「つ、強調しておくと、身体Aと世界は一体だ。
身体Aは、世界とつながっている。世界は、身体Aとつながっている。つまり、元来「自分」と呼んでいたものは世界である、
世界は「自分」だ。本来、自己と他者の境界はない。境界を定義するからあるように見えるだけだ。したがって身体Aの喪失は、
世界の一部の喪失に過ぎず、世界から見ると髪の毛や爪を切るようなものだ。≫
▼ 自己は定義の結果とすると、精一杯生きてきたこと自体が何だったのだろうか?そこで立ち現れた世界が自分になる。
ご隠居の身になった現在、私など死のうが生きていようが、どうでもよいこと。今まで「自分」と呼んでいたのが実は
世界だったということ。入江の洞窟と外海が繋がっていて、洞窟の周辺を自分と思っていたが、外界を含めた
世界が自分と考えると納得する。己の行蔵を振り返ってみれば、そのことがよく分かる。今の自分も世界ということも。
そうこう考えると、何?この俺は! になる。ただ気楽に死ねばよいだけ、プシュと。 ボチボチ気楽にいけばよい。
・・・・・・
4062, 本当は怖い抗うつ剤 ー1
2012年05月09日(水)
数ヶ月前に抗うつ剤(ハッピードラッグ)の恐ろしさについて書いたが、ある雑誌に浜松医科大元教授の抗うつ剤からの脱却の
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05月09日(木)
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