ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2570, 些細なものほど、光を放つ! と、振り返ると解る
 
   日常のチョッとした瞬間、60年にわたる過去の些細な記憶がフラッシュのように出る。
   これが還暦を前後して特に多くなってきた。
   人生は些細なことほど大きな意味が含まれているようである。
   コマーシャルではないが、「人生は、その人の選択で出来上がっている」と実感する。
   一日、数万のことがフラッシュのように脳に発生するというが。
   様々の経験から、自分の心の芯にとって、いやな後味になることはしないようにしてきた。
   それでも、次から次へとフラッシュが発生する。自分の過去を冷静にみれる年月が経ったためだ。
    多くの人を虐殺した政治家の内面は如何なるものだったのか。
    死者が纏わりついているのだろう。彼のそれは、些細なものではないからだ。

  次の文章が‘些細なものほど、光を放つ’ことを理路整然と表現している。
 〜〜
「哲学の教科書」中島義道著
  *些細なものほど、光を放つ
                  P-232
哲学者の目とは、人生の「外側」から、すなわちあたかも死者、
あるいは他の天体からの飛来者のように、人間たちの営みを見る目です。
こうした目で見続けますと、そこに面白い変化が生じてきます。
人生の大事と思われているものは取るるに足らぬように見え、
逆に取るに足らぬと思われていることが輝いて見えてくる。
「死」を背景にすると、天下国家の大事ではなく 些細なものこそ光を放ってくる。
フランクルは強制収容所という「向う側」にいる人間の心持ちを次のように語っております。

彼の想像はいつも繰り返し過去の体験に想いを馳せて、それに耽っているのであった。
しかしそれは過去の重大な体験ではなくて、以前の生活のごく日常的な出来事やささやかかな
事象のまわりを彼の考えはめぐっているのであった。……市電に乗って家に向う、入口の扉を開ける、
電話が鳴る、受話器を持ち上げる、部屋の電灯のスイッチを入れるー囚人がその思い出の中で
いわば撫で回して慈しむものは、こんな一見笑うべきささやかなことであった。
そして、その悩ましい思い出に感動して 彼らは涙を流すこともあったのである。

強制収容所に入っていない私たちが、今この状況を腹の底から実感するのは難しいでしょうが、
例えば奈良時代の官吏の一日を文字通り再現してくれれば、どうでもよいことがわれわれには
本当におもしろいことでしょう。
もし私が一時間だけ千二百五十年前の奈良の都に戻してくれるなら、東大寺や興福寺には
行かずに、人がごった返す市場に行くでしょう。内裏の「閣議」は見物せず、
一般の家庭の夕餉を見物するでしょう。・・(中略)女房が派手で困るとか、給料が上がらないとか、
子供がぐれて困っているとか、毎日の生活がしみじみと面白みを帯びてきます。

 〜〜
学生時代の日記を、ここで公開したが、私にとって、その面白みは当時の日常の風景が
具体的に書いてあったことである。実際に読み返してみると、当時のことが昨日のように思い出される。
何で、その後、思ったままのことを具体的に書いてなかったか後悔する。
誰かに見られたら嫌だというのが、それなのだろうが。些細なことの中に光が宿っているのである。
それは、「今日、今、ここ」しかないから。ここに永遠が存在しているから。


・・・・・・・・・・
2007年04月17日(火)
2205, 反時代的毒虫 −2
  才八∋ウ_〆(∀`●)
             ー読書日記ー
「反時代的毒虫」の中の
ー白洲正子との対談『人の悲しみと言葉の命』ーから

     車谷が『四十八瀧心中未遂』で直木賞をとったあとの「文学界」で白洲正子との対談である。
     白洲をして、恐ろしい、こわい、と言わしめるのだから、驚きである!
−−
白洲 「私、十何年も前に見っけたんだからね」
車谷 「白洲先生からいただいたその手紙をここに持ってまいりました。
 『新潮』に発表した『吃りの父が歌った軍歌』を先生が読んで、手紙を下さった。」

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04月17日(木)
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