ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2427, 自分自身に「なる」こと
(。・ω´・)っノXXXXXXXXXX>C【才ノヽ∋―】
人生を振り返ると、全てが自分自身に「なる」ためのプロセスのような気がする。
先日、小学校の同期会があったが、それぞれの生き方をしてきたとしても、
突きつめてみれば「自分らしく生きてきたかどうか」である。
人生の質でも濃さでもない。
そんなことは生きてきた、生きていることからみれば、些細なことである。
死線を何回か乗り越えてきた人、北アフリカとフランスに十年住んでいた人など、
色いろな人生を背負った、それぞれの人生を垣間みて、
「人生で何をしたかより、その人らしい生き方をしたかどうか」
こそ、振り返った時に問題になる。 残るのは「本人らしさ」だけである。
以下は、『哲学の教科書』・中島義道ー
の中の文章である。
−−−
ここに、最高の自己表現、誰にでも適性があり、
かつ人生の最高目標に据えるにふさわしいことが一つ残されています。
それこそ、はじめに触れました(自分自身になる」というとです。
全ての人は個人なのだから、そのまま何もしなくとも人生の最高目標をもう達成している
と考えるなら、そんな甘いものではない。
マザー・テレサは、視線を絶えず苦しんでいる人達に向けながら、
このうえなく「自分自身になる」ことを実現している。
あるいは自分のよい個性を伸ばす事も「自分自身になる」である。
特別世間的には偉くなくとも、その人のそばにいるとホッとするような人や
安心するような人はどこにでもいるものです。
しかし「自分自身になる」ことは、必ずしも世のため人の為になることを含意してはいません。
この言葉には「よいこと・悪いこと」といった枠を越えたもっと根本的な意味があります。
それは、「生きること」そのことを目標にする「生きること」そのことを
問題にすると必ず「死ぬこと」が影のようについてまわる。
前に紹介した禅の坊さんたちの修行の目標は、例えば白隠の「いつかは生死を離るべき」
のように、あるいは道元の,「生をあきらめ死をあきらめるは仏家一大事の因縁なりのように、
「生死の区別」そのものを幻と自覚するようなところにあるようです。
最終的にはこうしたことに収斂することは認めながらも、しかし多くの若い人々は
必ずしもつねに,「生」、や「死」そのものに悩んでいるのではなくー
すでに見たように一就職とか結婚、あるいは自分の肉体とか性格など目前の
具体的なことに悩んでいるのではないでしょうか。
そこで、次にこうした悩みについて考えてみます。
私はいかなる(いわゆる)些細な悩みであれ、本人がそれを悩むかぎりは、
彼〔女)にとって悩む理由はあると思っております。
いやむしろ、(いわゆる)些細な悩みであればあるほど、誰もそれを真剣に取り扱って
くれないゆえに、本人の内部でいつまでもくすぶり続けるのです。
では、どうしたらよいか。ある欠点に悩む人はその欠点を消去ないし改善するのではなく、
それをー変な言い方ですがー「伸ばす」ことです。
ーー
著者の事例が良い、「長谷川町子からサザエさんを、美空ひばりから演歌を取ったとしても、
本人が生きたことから見れば些細なことでしかない。」
それを死期を悟った時に、本人が一番気づいたはずである。
著者は、これまでの価値観を根本的に揺らぐようなことを平気で述べる。
それだけ生きるということ自体が価値があるということだ。
少し考えれば、当たり前のことだが、その当たり前のことに気づかない!だけである。
*´・ω・)ノ バイ!
・・・・・・・・
2006年11月26日(日)
2063, 親戚の交通事故
一昨日の夜20時過ぎに家内が柏崎の実家の近くに住む妹に電話をしたところ、
彼女の連れ添いが交通事故にあったという。
「入院中の義母が、数日前から具合が悪い」という連絡が数日前に義妹から入り、
私と見舞いに行く打ち合わせの電話をした時に、その知らせを聞いた。
「数時間前に亭主が交通事故にあい、病院で手術中」という。
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11月26日(月)
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