ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2068, あたりまえなことばかり −19


           (+>∀<+)ノ 
            おぁはは〜ようさん!


    哲学的にみると、トラウマ「心的外傷」に対して、
    心は物理的に存在していないのだから、外傷と言えないという。
    しかし深い悩みを持った人は、心を肉体に喩えると大きな傷を負っている。
    大きな傷として仮定して、その傷口を消毒し、外科的な手当てが必要である。
    それが精神科であり、セラピーの役割となる。
    それぞれの立場・見方も必要である。
    
        以前は、癒しなどの言葉は無かった。
        精神科があっても、セラピーなどあったのだろか。
        手相などの占いが、昔流のセラピーの役割をしていたのだろう。
        私の場合の心の危機の場合、読書、音楽、ウォーキング、酒を飲んだり、
        このHPなど、癒しそのものである。
    最近は、これに早朝の曼荼羅モーニング・ページである。
    それに毎朝の仏壇の前の祈りもある。
    ストレスなど溜まるわけがないが、それでも少しは溜まる。
    
        自分の連れ添いが自殺したり、子供が自分のミスで死んだりした時に、
        癒しなどという言葉は、あまりにも甘く聞こえてくる。
        自分で自分を救う以外ないだろうが、自分で自分を癒すなどできはしない。
    そう考えると、癒しとは「目先の心の傷を応急処理すること」ということになる。
    それも大事なことである。
    それをしなかったため、精神病になる糸口になるからである。

   まあ、この本の抜粋もなかなか面白いが・・・
   
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どうすれば癒されるのか  −@
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癒しは「ストレス発散」「コンプレックス解消」に比べると、
具体性に欠ける。ストレス解消のためカラオケに行く。
コンプレックス解消のために化粧をするという具体性は無い。
何となくふわふわと浮わついた「雰囲気気」、それが当の癒しであると
するならば何となく納得する。
だとしたら、癒されるべき傷などどこにも無かったか、その程度のものである。
具体的なものが見えないから、漠然とした物欲しげなそこへ、
各種のグッズやセラピーが商品として流通するという構図である。

    しかし、受動態「癒される」の主語あくまでも「自分」なのだから、
    主語を支点にこれを能動態に変換すれば、「自分が自分を癒す」になる。
   「癒し」とは、各種グッズやセラピーによって、自分で自分を癒す能動的行為
    であると言うこともできる。

自分で自分を癒すとは、どういうことであろうか。
癒すためには癒されるべき傷がなくてはならない。
傷とは何であろうか。
傷ついているのは自分である。
そう思っているのは誰だろうか。
「自己治癒」という、いっけん明瞭なようなこの概念は、
日常レベルの予測をはるかに超えた、広がりと奥行きと複雑さを持っている。
それは、一般的な問いのある種の逆転によって垣間見られる。

   「私とは何か」   −>「何が私であるのか」
   「心とは何であるか」−>「何が心であるか」

   「心はどこにあるか」ではない。「何が心であるか」である。
   「どこに」は、既に三次元空間内にそれがある存在していることを
    前提としている。脳も心もこの三次元空間内の物体である。
    しかし、心の痛みは、その痛みはそのものは、物理的な存在ではない。

本来、物理的な存在でないものを、物理的な存在であるように表象する、
もしくは表象させるそのような命名が、多くの誤解を生じさせている。
トラウマ「心的外傷」、その視覚的イメージが、何がしかの塊り状のものが、
傷口を空けているという光景である。
心的外傷、すなわち心が外から受ける傷である。
物理的でないものの、「外」、その「内」とは、どのような区分であろうか。

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12月01日(金)
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