ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2067, あたりまえなことばかり −18
(+>∀<+)ノ
おぁはは〜ようさん!
人生には、それぞれに相応しい時期がある。
その年齢ごとに新しい経験を織り込んでいくのが人生である。
私の中学校のクラスは卒業後も非常に仲がよくて、節目ごとにクラス会を開いていた。
地元にボス的な女性がいて、その都度声を掛け合って20人は集まっていた。
卒業後15年ほどしてからは1〜2年ごとにクラス会を開いていた。
担任の先生の停年の年には(18年ほど前)、湯沢に一泊した翌日、長岡に帰ってきて、
延々と夜半まで三〇数時間も一緒に飲み続けた。
最近までは毎年のように理由をつけては会を開いていた。
そこで見えてくるのは、「歳をとるから老いる」ということではないことである。
経験を自分の人生の中で織り込んでしまえば、生きるということ、老いることも、
むしろ面白く、味わいが深くなる。人生など大したことがないものである。
深刻に考えるだけ馬鹿馬鹿しい。
気楽に考えて、その時々を真正面から生きていさえすれば、
それでいいんじゃないか! ということである。
( ^3)〜♪よ〜よ〜それが一番、
難しいんじゃないかい!
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老いは個人の生を超え −A
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老いるほど人生は面白くなるという言い方は、確かに可能である。
その歳まで、いったい何をしてきたのかと訝りたくなるような老人が多い。
おそらく、何もしてこなかった。
摂食、生殖、快楽の追及以外何もしてこなかった。
刺激に反応して、反応したら忘れるといった動物的生存の日々、
そういう人々は、したがって老いることを拒む。
動物的生存に価値がある限り、肉体の衰えは価値の喪失以外ではないからだ。
老いた自分に価値が認められない。「老醜」とは正確には自虐的に使われる。
逆に、内省を知っている人は美しい。
鏡を内側に持っているからだ。外に映る鏡の姿が崩れているにしても、
ともに崩れる必要がない。
若年からの内省の習慣、老いるほどにその姿は違って見える。
内省すること、心の姿を整えること、それが魂の世話をする意味である。
歳を重ねると、内省と回顧が判然としなくなるが、面白いのは、
このとき回顧されているのが自分の人生ではなくなっているということだ。
自分の人生を振り返ってその視野に、自分の人生としての人類の人生、
すなわち「歴史」が、当たり前のように入ってくるようになる。
内に鏡を所有して生きることの面白さは、
その現在の鏡に過去が映っているからだ。
過去とは現在以外ではなく、
歴史とは自分以外のものでなかった、
と気づかされるのだ。
それが鏡が鏡であることの秘密である。
「歴史は鑑である」とは、本来その意味であった。
ーー
母親が80歳の時に、
「私の生きた5〜6倍前に家康や秀吉が生きていたと思うと、
大して昔じゃなかったのね!」という言葉は、
歴史が鑑であるという意味ではないが、ハッとする言葉であった。
自分の生きた時間と家康の生きていた時代を対比して感じ取った言葉だからだ。
田中角栄がどうした!と、今では確信を持っていえる自分がいる。
それは自分の人生とは比べようもない実力を持った人も、過ぎ去ってしまえば、
ただの悪名高き犯罪者でしかなかった政治家。
その男が活躍していた時、私は学生で、雲の上の人とみていた。
いまは、「何じゃい!戦後バブルの波に浮かんだ泡以上でも以下でもない男。
そしてまだ、その娘が馬鹿丸出しで恥をさらしているだけ」としか思えないのも、
自分が生きてきた時間の中で、自虐の自分を鑑にしてみるからだろう。
(-"-;)
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11月30日(木)
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