ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2051, あたりまえなことばかり −7
            才八∋ウ_〆(∀`●) 

    幸福論も、あるところまでいくと、生死の問題に深く関わることになる。
    しかし生死がわかるはずが無いことは、前に論じてきた。
    観念としての幸福を、いくら説いてもラッキョウの皮を剥くようなもの。
    といって、人生の中で「自分ほど不幸ものはいない」と、思ってしまうのが人間の性。
    不幸という観念に捉われないためにも、やはり孝・不幸は真正面から
    論じてみる必要がある。
    
    前に読んだー「私」のための現代思想ーもそうだが、
    過去の知識の総点検をしているような感覚である。
    知っただけ、経験しただけ生きてきたことになる。
    知識として知らないことがあまりにも多すぎた!
    これが現在の心境である。

 ーー
「あたりまえなことばかり」

W・ 幸福はどこにあるのか ー A

我われの幸福の観念は、生死についての観念に分かちかたく結びついている。
「死後」もしくは「来世」の観念の有無で、人の幸福感は劇的に変わるのである。
人類においては、「人生を、この世に限定しないほうが長かった」。
「私」という観念が、それと等しく漠としたものであったために、
彼らの幸福はもっと大きくて広い、何か天地自然のありようといったものに近かったようだ。
しかし、「科学主義的的死生観」が、われわれの観念のほとんどを規定している
現代のような時代では「私」が存在するのは一方的に前進する時間軸にごく限られる。
その限られた時間の枠内で、私はなんとか幸福にならなければならないのだから、
現代人の幸福は、常に脅迫的なのだ。

   何が脅迫的といっても、「私は幸福にならなければならない」というこの観念以上に、
   脅迫的なものは無いだろう。人はなぜ幸福でなければならないのだろうか。
   「幸福」という観念を持つと同時に人は不幸も所有する。
   「幸福」は言語、「私」もまた言語、おそらくは、言語以前の何らかそのように、
   とりあえずソット添えられていた名札のようなものが、言語以上の何かを指示すると
   思い込んだ時、それらはその反対物をも指示することになった。
   したがって「人は思うことによって幸福にも不幸にもなり得る」という言い方は、
   その意味で正確である。思うのはその人でしかないからである。

一般的に人は、生きていることを幸福といい、死ぬことを不幸という。
しかし人は、その生きるために労働することに不平を言い、
生きるためには食べなければならないという。
しかし、本当に生きていること自体を幸福と思っていれば、
その生きるために労働することも幸福であるはずだ。
そうすると、生きていること自体は、あるいは不幸と思っているのかもしれない。
だとしたら、なぜ人はこれほど、死を厭い、避けようとして生きているのだろうか。
生きることが不幸なら、死ぬことは幸福であるはずである。
生存していること自体は、幸福なのだろうか不幸なのだろうか。

    生死それ自体と、孝・不幸とは、実は全く関係ない。
    生死という形式は、それ自体単純な事実だが、孝・不幸とは、
    それに付与されるところの観念だからである。
    したがって、生存していることによって発生する様々な肉体的苦痛も
    身体の苦痛という事実の中では、不幸であるという観念ではない。
    もしそれが不幸であるなら、それはその人が不幸という観念それに
    付与しているに過ぎない。

 身体の苦痛は、多く、人の心を不幸にする。苦痛は苦痛として明瞭にすぎる。
 だからこそ、身体の苦痛は心の不幸ではないという単純な事実を知ることが、
 われわれの幸福の新たの端緒となるのではなかろうか。
 
   ーー
   何事もそうだが、身体の苦痛だけではない、目先の苦痛や悩みは
  大きな流れの一つでしかない、直ぐに次の現象が洗い流してしまう泡である。

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11月14日(火)
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