ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2050, あたりまえなことばかり −6
\(≧ロ≦\)オハヨウ!
サン
著者の幸福論もシンプルで解りやすい。
幸福など観念でしかない、観念をカタチに求めるから
‘こんなはずではなかった’という結果になってしまうのである。
それはあれ等、軽いタレント同士の結婚の破局をみれば分かることだ。
家庭内を含めると半数以上の夫婦間が破局するのも、
このような無知からきている。
まあ、相性もあるが・・・
幸福論は、格言以外あまりまともには読まないが、
‘付随してくる感情か、自分を納得させるための方便’
ぐらいにしか考えてなかった。
この著では、タレントとか有名人の表層の幸福のカタチは、
動物レベル?ということになるが・・・
コミックとしてしか誰も観ていないか、
いやまともに見ているから恐ろしいのか!
ーー
「あたりまえなことばかり」
W・ 幸福はどこにあるのか ー @
何ものでもない心の状態としての幸福というものを、
ほとんどの人は物質に似たものとして人は思い込んでしまう。
人は「思い込みの動物」である。
動物存在として「カタチあるもの」をのみ幸福と思い込むのは自然である。
そのレベルでは、目に見え、触れるもののみが存在する。
生存するために存在する。
しかし動物は、そのような自身のありように自身のありようを問わないであろう。
人間のみが、その生存において、自身の孝・不幸を問う。
このとき、その理由によって孝・不幸は一つの思い込みになる。
カタチあるものを、カタチない孝・不幸と同じように、
カタチないものを、カタチあるものに孝・不幸を求めてしまう。
カタチなきものを、カタチあるように思い込む、
その思い込まれる思い込みを、通常は「観念」という。
孝・不幸もその意味で観念である。
幸福とは何がしかカタチないものと予感しながら、
カタチ無いままにさせておくことが出来ず、
何がしかのカタチあるものとして捉えては、捉われる。とか「、
例えば、カタチなきものであるはずの「愛情」を求めようとして、
人は結婚や家庭というカタチを求める。
あるいは、カタチなどあろうはずが無い「自由」を求めようとして、
「自由」「自己実現」というカタチを求める。
はたして幸福でない心に、幸福な生活があり得るだろうか。
心は、いわば分母の一のようなもの。
心が不幸であれば、いかなる分子も不幸であろう。
分母が幸福であれば、いかなる分子も幸福であろう。
あれこれの生活のありようなど、所詮は分子的な存在でしかない。
ここで問題のなるのは、「私」とは、では誰のことなのか。
そして他人と比べての孝・不幸であるところの「私」とは誰なのかの
問題になってくる。
「私は私である」「私は個人である」とは、
「私とは誰なのか」という問いを止めてしまった我われの思い込みである。
この限り「私」とは、一つの観念なのである。
人は自分を「個人」と思い込むことによって「幸福を個人の領域」に押し込んでしまう。
財産や地位など有形のものも等しく「個人の所有」とみなして、その所有を幸福と思う。
したがって、このとき「私」と「幸福」との間に、定義に大きな懸隔があることになる。
所有者は所有物ではないからだ。
主体の「私」は、客体の「幸福」ではない。
「『私』は『幸福』でない」、つまり「私は幸福ではない」のことになる。
個人がそれを所有するという仕方で人は幸福であり得ないのが、
幸福は所有物でない理由よりも、むしろ「私」は個人であるという理由によっている。
もっと言うならば「私」というものは「ない」。
「ない」ものが何かを所有することなどできない。
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11月13日(月)
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