ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■1607, 人生の意味など何もない!
仏教思想家 ひろさちや の文章の一節の問いかけに考えさせられた。
「人生の危機」と「生活の危機」を混同してきたので、
改めて「人生の危機」について考えてみた。
ーまずは、彼の文章の一節を書き写してみよう。
わたしは「人生の危機」といったものを、「生活の危機」と混同していた。
病気をしたり、会社を首になったり、破産することが「人生の危機」だと
思われているが、なに、それらは「生活の危機」でしかない。
「人生の危機」とは、そんなものじゃないはずだ。
それは、人間は何のために生きているか、
その意味がわからなくなったときである。
「俺は何のために生きているのか」
「俺の人生に何の意味があるのだ」
「俺という人間がこの世にいようといまいと、地球にとって何の変わりもない。
俺という人間に何の価値もないんじゃないか・・・?」
そんな考えを持ったとき、それが人生の危機である。
わたしの危機は学生時代であった。
何のために大学に来ているのか?
何のために生きているのか?
わからなくなった。
色いろな哲学書などを読んでいたが、その疑問に答えてくれる本は無かった。
人生の危機であった。
そんな時、サマーセット・モームの「人間の絆」を読んだ。
二度目にモームを読んだとき、モームがわたしに、
「人間は何のために生きるか」を教えてくれた。
この作品の中でモームは、
「人間の歴史」を知りたいと思った東方のある王様
アネクドートを紹介している。
賢者に命じて500巻の書物をあつめさせるが、国王はそれを読む時間が無い。
最終的には学者に「人間の歴史」をたった一行の文章にまとめさせた。
そこのところを引用する。
<・・・・賢者は、人間の歴史を、わずか一行にして申し上げた。
こうだった。人間は、生まれ、苦しみ、そして死ぬ、と。
人生の意味など、そんなものは、何もない。
そして人間の一生もまた、何の役にもたたないのだ。
彼が生まれてこようが、来なかろうが、生きていようが、死んでしまおうと、
そんなことは、一切なんの影響もない。
生も無意味、死もまた無意味なのだ。>
こう気づいたと同時に「人間の絆」の主人公は楽になる。
<今こそ責任の最後の重荷が、取り除かれたような気がした。
そしてはじめて、完全な自由を感じたのであった。
彼の人生の無意味さが、かえって一種の力に変わった。
そして今までは、迫害をされてばかりいるように思った冷酷な運命と、
今や突然、対等な立場に立ったような気がしてきた。
というのは、一度人生が無意味と決まれば、
世界は、その冷酷さを奪われたも同然だったからだ>
この主人公と同じように、私も楽になった。
人生は無意味である。
人間の存在価値などない。
そう考えるなら、大金持ちになろうが、ホームレスになろうが、
成功しようが、失敗しようが、全くなんの意味もない。
どう生きようが、どうせ無意味な人生なのだから、全く自由である。
自由であるということは、世間の都合ではなく、まさに自分に由って生きることだ。
そこでわたしは、そういう悟りを開いたのだ。
これはわたしの大発見であった。
ーーー
以上が、その抜粋した一節である。
何か、ズバリと一番の核心を突く鋭い内容だ。
全てが的を得ているとは言えないが、こういう見方もあるのだ。
「夜と霧」のフランクルの<人生の意味>を考えてみて、
その背後にある、人間の究極の意味も軽くみることはできない。
世間的な価値観に縛られているなら、むしろ全く人生の意味は無いと断じたほうがよい。
究極の人生の価値を探すなら、フランクルの人生の意味が的を得ているといえよう。
「人生は無意味、人間の存在価値などない!」も的を得ているのも事実である。
この一節で何か肩の荷が下りたような気持ちである。
自分の人生の点数を80点と決めつけ、思い込んでいた軽さを自覚させてくれた。
自分の人生の評価など0点である。
そして人生など0点でよいのである。
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08月27日(土)
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