ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[398133hit]
■1600, 第三の時間
ーやすらぎのとき
人間の流れている時間には、
仕事時間、
遊び時間、
やすらぎ・ゆとり時間
大まかの三つの時間がある。
私の人生を振り返ると、その一番大事なやすらぎ時間がタップリあった。
それが私の人生を豊かにしてくれた。
朝のパソコンタイム、散歩、寝床前の音楽タイム、
そして海外旅行などがそれに当たる。
海外旅行では、飛行場や飛行機の中で「待つ」ということは苦痛ではなく、
旅行中の待機という至福のときになる。
独りで散歩をしたり、夫婦で海外旅行にいそいそ出かけ、あまり群れないので
付き合いの悪い男に見えるだろう。
しかし、この時間を意識的に創れるかどうかが人生を分ける。
ここに重心を置くと、世間付き合いを犠牲にすることが多くなり、
アウトサイダー的になる。
そんなものは当人にとって如何でもよいことだが。
ところで、ある本に
ー沙漠の「とき」ー
中央大学総合政策学部教授
片倉もとこ
という文章があった。
ふかい人生をこの文章の中に垣間見たようだ。
ー抜粋してみるー
沙漠で生活すると、人間の存在が、きわめて小さく、
しかし大きく感じられることがある。
それは、刻まれるものとしての時間が、天空に吸いとられてしまったような
「とき」を経験する瞬間である。遊牧民と一緒にいると、静かな長い長い
沈黙がながれることがある。
あるいは、彼らの暮らしの中では日常になっている瞑想の時でもある。
それは、近代的な時間のなかで生活いなれた人間にとっては気まずい時間だったり、
非生産的だと思われ、ばつが悪かったり、何がしかの焦燥感を抱かせるものだ。
しかし時間が消散してしまうと、空間がクローズアップされてくる。
時間に関する指標は、場所の指標でおきかえられる。
彼らにとって場すなわち空間が非単位的であるように空間の一部化している
時間も非単位的である。時間が単位ではかることができないものゆえに、
利息をとることの否定につながる。
たばこをのんで間をもたせる道具ではない。たばこ自体を楽しむ時間を、
たっぷりととる。
沈黙の時間に出会うと、近代的な私は、何でもよいから、おしゃべりを続けねばという
焦りに似た気持ちが湧いてくる。可視的、可聴的なもので埋めることが、生産的、
つまり礼儀だと思い込みが近代人の習癖になっている。
しかし、彼らは泰然としている。
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
2004年08月20日(金)
1235, 「こころ」の出家(2)−読書日記
ー「第1章 人生を振り返るとき―C.G.ユング 」
「中年」の発見(ある「失踪」午前の人生、午後の人生)
中年真っ盛り、いや終盤に入った私にとって、この時期の心的風景は面白い!
今まで振り返らないようにしてきた過去が、いやに鮮明に思い出されてくる。
ーこの随想日記を書き続けていることも大きく影響しているが。
自分の人生とは何だったのか?
あの時の判断は、考えは、果たして正しかったのだろうか?
あの時の、あの人の気持はどういう気持ちだったのか?
この歳になって、初めて気がつくことが本当に多い。
そして、過去の、その時々の自分のペルソナ(仮面)が、よく見えてくる。
僅かしかない知識で、精一杯生きていた若い時の自分の姿が走馬灯のように、
よぎっても来る。
ユングは、
人生の午前と午後は、その優劣を比較するものではなく、
全く違う意味と価値を持つものだという。
若いころの「発達中心のライフサイクル観」から、もう一つの座標軸の
模索を勧めるユングの考え方を「出家」と、とらえるのは自然である。
人生を振り返ってみて思うことは、
生きるということは「自分への旅」ということである。
四国のお遍路は「過去の自分に向かって歩くこと」だというが、
生きるということは、いま現に自分に向かっての旅をすることだ。
そして、最後には無に帰っていくのだ。
ー第一章の印象に残ったところを抜粋してみる。
[5]続きを読む
08月20日(土)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る