ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6476,閑話小題 〜居間の晩酌の味わい
いるらしい小蝦の様子をみて山椒魚は、屈託したり物思いに耽ったりするやつは
莫迦だと言う。しかし山椒魚がふたたび出入り口に突進し、栓のようにはまり
込んだりといった騒ぎをはじめると、はじめは狼狽していた小蝦も失笑する。
・その後、山椒魚は外へ出ることを再度試みるが徒労に終わり、涙を流して神に
むかって窮状を訴える。彼は岩屋の外で自由に動き回っている水すましや蛙の姿
を感動の目で眺めるが、そうしたものからはむしろ目をそむけたほうがよいと
考え目蓋を閉じる。彼は自分が唯一自由にできる目蓋のなかの暗闇に没頭し、
寒いほど独りぽっちだ、と言ってすすり泣く。
・悲嘆にくれるあまり「悪党」となった山椒魚は、ある日、岩屋に飛び込んで
きた蛙を閉じ込め、外に出られないようにした。蛙は安全な窪みのなかに逃げ込ん
で虚勢を張り、二匹の生物は激しい口論を始める。二匹のどちらも外に出られず、
互いに反目しあったまま1年が過ぎ、2年が過ぎた。蛙は岩屋内の杉苔が花粉を散ら
す光景を見て思わず深い嘆息を漏らし、それを聞きとめた山椒魚はもう降りてきて
もいいと呼びかける。しかし蛙は空腹で動けず、もう死ぬばかりになっていた。
お前は今何を考えているようなのだろうか、と聞く山椒魚に対して蛙は、今でも
別にお前のことを怒ってはいないんだ、と答える。
―(注)明日どうなるかわからない無名作家だった井伏鱒二が生活を続けていた。
「山椒魚」の冒頭近くには、「人々は思ひぞ屈せし場合、部屋のなかを屡々、
こんな具合に歩きまはるものである」という文があるが、「山椒魚」はこのような
作者の生活、世に出られない焦り、そして時代の閉塞からくる「思ひぞ屈した」
状況を反映しているものと考えられる。そのような「思ひぞ屈した」感情はまた
井伏の初期作品に共通するユーモアの基底をなしているものでもあるが、しかし
中村光夫は井伏と「山椒魚」を次のように述べている。<氏の「思ひぞ屈した」
憂鬱は、この醜い両棲類に代置されることで、明瞭な形を与へられ、自己を限定
され、理想化されたので、この点では氏の後の小説のどの主人公も、この一匹の
山椒魚に及ばないのです> ≫

▼ 初老性鬱症も、こんなものか? このブログにも、そのままの屈折が色濃く
 出ている。「日々、是、口実」の一つになるが、<井の中の蛙大海を知らず」+
「されど空の深さ(青さ)を知る」というが、狭い岩場にいても、空が雄大なことを
知ることができると? 人生を振返るとき、限りないエネルギーを私という器に
閉じこめら、山椒魚のように鬱屈した己を省みて涙する。また夫婦間の軋轢も、
似た(妻=蛙)ようなもの。お互いの首を縛りつけた紐を持ち合い、締付けあい、
罵声を投げあう。蛙を他者として、色いろな人を当てはめると、これまた面白い!
「誰?」「あ・な・た」 いや「めだか」に… もちろん、冗談です。
ノイローゼにも… 自殺もしたくなるわ、屈折もするわ… そこを何とか?
「にっこり笑って、ハンカチーフ」が、人生のコツ。最近は、B級グルメを食べ
ながら… が効果的と気づいた。まあ、可愛いものである。
 蛙が死んだ独り身は、それはそれは寂しい孤独と、孤立が待っている。
生臭い「死」と「生」の境目にある岩場の中の生きものの感じる孤独とは?
「呆けていなけば、やってられません」ということで… お後が宜しいようで。
――――――
2011年12月06日(火)
3907, ルソーの孤独
 2009年12月1日の随想日記「人生に関する小題」の中で、
現在の私を予感させる文章があった。
≪【 わたしは地上でたった一人になってしまった「孤独な散歩者の夢想」は、
 64歳のときに書き始め2年後の死ぬ直前に終わった文章、ルソーの絶筆である。
「第一の散歩」から「第七の散歩」まであり、その後「八、九、十」がメモの
ような文章が続く。冒頭で、「こうしてわたしは地上でたった一人になった。 
人なつっこい人間でありながら、万人一致の申合せで人間仲間から追い出されて
しまったのだ・・ わたしは、かれらから離れ、すべてのものから離れたこの

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12月06日(木)
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