ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4623, 閑話小題 ー創業当初の営業担当の年賀欠礼の葉書
  そこに住む人びとの本が、街だ。 自由な雑踏が、本だ。  夜の窓の明かりの一つ一つが、本だ。
  シカゴの先物市場の数字も、本だ。 ネフド砂漠の砂あらしも、本だ。 マヤの雨の神の閉じた二つの眼も、本だ。
  人生という本を、人は胸に抱いている。  一個の人間は一冊の本なのだ。 記憶をなくした老人の表情も、本だ。
  草原、雲、そして風。 黙って死んでゆくガゼルもヌーも、本だ。  権威をもたない尊厳が、すべてだ。
  200億光年のなかの小さな星。 どんなことでもない。 生きるとは、考えることができるということだ。
   本を読もう。 もっと本を読もう。 もっともっと本を読もう。
   ーーーー
   ローガウの「格言詩」の中に「世界は一冊の本であり、人間ひとりひとりは活字である。
  国々は綴じひもであり、時代はページである。」という詩がある。
  これを人生という視点で置き換えると「人生は一冊の絵本であり、出会ったひとりひとりは挿絵である。
  家族は綴じひもであり、時代はページであり 筋書きは愛である」という詩ができる。
   それにしても、「世界は一冊の本」の詩は、ひとことひとこと胸に刺さる。                          
 ・・・・・・・・
 2007年11月12日(月)
2414, 反転 ー闇社会の守護神と呼ばれて −2         オハヨウ (▼皿▼#) !
 この本の中には検事の職業の裏と表を、あますことなく書いてあるが、次の言葉が解りやすく象徴的である。
「検事を含め法曹界におけるわれわれの仕事は、しょせんその「ドブ掃除」にすぎない。
 正義を振り立て、人をリードする職業などではない。人間のやった後始末をするだけだ。
 それも人間のいちばん汚い部分の後始末である。」それゆえに、ヤメ検は裏社会に適応するのだろう。
 ー前回の続きの部分をコピーしてみるー
  (字数制限のためカット09年11月12日)
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2006年11月12日(日)
2049, あたりまえなことばかり −5
          オッハ ∠_(o ̄∇ ̄o)  
 {「私」のための現代思想 }の読書日記を17回にわたり書いたが、ここでの著者の「私」についての、解釈も面白い。
「私」については、知れば知るほど面白い。ソクラテスの「汝自身を知れ」ではないが、汝が居てはじめて「私」が存在する。
 複数の汝によって、「私」は社会の存在者として表出する。         
 ー 生きているとはどういうことか ー
科学的世界観時代のドクマとして、自分は肉体であると思い込むに至る。しかし自分は肉体であるとは、どういうことなのか。 
それを極言すれば、自分とは脳であると、現代人は9割がたの人が疑ってない。「私」という言葉で、精神、感情、心とかいった
ことも含めるんでしょうが、精神的なことも脳波を測定したりしていますが、「私」は果して脳なのでしょうか。
脳には触れることができるとしても、考えそのものには触れることはできません。 感情だって、同じである。
「私」という存在にもっとも驚いたのは近代哲学のデカルトである。なんだこれは。考えている「これ」です。
「精神」「コギト」と彼は言いましたが、非物質の精神の存在、コギト。 彼はそこで失敗したのは、それに「私」
という名を持ってきてしまったことだ。そこに「私という名を持ってくると、どうもそこに私が存在するようになる。
問いとしてあべこべになってしまう。 つまり考えている「これ」に「私」という名前を当てたに過ぎないのであって、
「私」というものが予めてあるのではない。何かにあてられた一人称代名詞。これも名前に過ぎないということに気がつきます。
この一人称代名詞「私」は一体、何を代名しているのか。 最近「自分探し」というのが巷で流行っているそうですが、
これは方向としてあべこべで「私」という何かが何処かに在ると思っている。 
たぶんそれは社会的なアイデンティテーが欲しいということなんでしょうが。 それは正しい問い方ではない。

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11月12日(火)
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