ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2954、ハゲタカ
つまり、彼は連続的な自然現象を正確にとらえることができても、そこに「いま」と「いま」の楔を
打つことができないのである。そういう彼は「私」という意識をもたない。
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以上が、「いま」を哲学的に書いてあるところである。「いま」は、過去の上によって初めて成り立つ、
と解りやすく説明している。そして、「いま」は想起能力がなければ存在し得ない。
「いま」を大事にするということは、過去を大事にすることになる。
過去を想起し得てこそ、「いま」が存在をする。それからみると、日記は「いま」にとって
大きな要素になる。文章として書き残すことは「想起のための楔としての記録」になる。
「いま」の意味を、もう少し納得するために記憶喪失を例に考えてみる。
先日レンタルDVDで観た[記憶のない男]の姿の中に[いま]の希薄をみた。
彼の「いま」は全く過去を持たないため、虚空を彷徨っているようであった。
その「いま」は小さな点ーエネルギーでしかないように見えた。
過去の「いま」の積み重ねをバックに持ってこそ、私の「いま」がある。
それは、未来に対しても同じことである。深い過去をもってこそ、深い「いま」が存在をしてくる。
「いま」だけが全てではないのである。
ーつづく
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2004年05月07日(金)
1130, 「ライフレッスン」?11
ー 許しのレッスン
誰も人生には、八つ裂きにしても許せない人間は何人かいる。
そして、自分も、他の人間にとって、そのうちの一人になっている。
相手を許すということは、けっきょくは自分を許すことである。
許すということは、自分の内面の魂の問題のかかわってくる問題である。
「ならぬ堪忍、するが堪忍」であり、それは自分を如何に納得させるかの折り合いの問題でもある。
許すというのは、ある意味で奇麗事なのかもしれない。しかし、その奇麗事は最も大事ではなかろうか。
許しは、主体的なことである。許そうと努力していれば、そのうちに忘却の彼方に消えていくものである。
残ったとしても、自分の記憶には「許し」という言葉が包んである。
ー以下は抜粋であるー
・人生まっとうにしようとするなら許すことを学ばなければならない。
許しは苦痛や傷を癒す方法であると同時に、ふたたび他者と自己を結びつける方法である。
わたしたち全員が、他人を傷つけたことがあったはずだ。
問題は傷つけたり傷ついたりすることよりむしろ、その経験を忘れられないこと、
それを忘れようとしないことである。傷の痛さはそこにあるのだ。
わたし達は傷をためこみながら生きているが、その傷を手放す方法はだれからも
教わっていない。許しを必要とされる理由はそこにある。
許す人生を選ぶか許さない人生を選ぶかは、その人が決める問題である。許しは自愛的な行為といえる。
許さないということは、むかしの傷や怒りにしがみついているということである。
恨みの感情に栄養をほきゅうして、過去の不幸な部分を生かし続けることである。
許すことができなくては、自分自身の奴隷になるしかない。
・もうひとつ許しの障害になっているのは、報復してやりたいという欲望である。
報復という低次元な行為をした自分にたいして、あとで罪悪感をもつことになる。
自分を傷つけた人に対する攻撃的な行為が,けっきょくは自分を傷つけるのだ。
ーー以下は字数の関係でカットしてます。
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2003年05月07日(水)
763, 地方差別
東京では、地方出身者は田舎者と露骨に差別される。学生時代に東京に住んでみて、
驚いたのが地方差別であった。解らないでもないが、都会生活での初めてのカルチャーショックであった。
今でも海外旅行のパックの同行者の意識で驚く事がある。それも強い負け犬の立場の人?に露骨に顕れている。
一番面白かったのが「ケニアのヌーの河渡り」であった。都会のハイミス・ゴールドミス(グランド・オールドミス)
がすざましいひと達だった。具体的には書きたくないが、その傷口の血は濃厚だ!もう二度と、その血を浴びたくはない!
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05月07日(木)
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