ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6985,閑話小題 〜さらに言う… これは酷い!
 が顕著になっている。人間は、怒りそのものを抑圧されることによって、喜怒
 哀楽という自然を失い、不自然な存在に歪められていく。 「風土」論にみる
 日本人とは?といえば、 和辻哲郎の風土論がまっさきに上げられる。
 彼は世界の気候をモンスーン型、砂漠型、牧場型の三つに分けた。
 モンスーン型は、温暖湿潤なため温厚と同時に忍従的であるため従順な人間に。
 これに対し砂漠型は、厳しい自然に抵抗するため攻撃的になる。
 また牧場型は、自然を囲い込んで征服しようとするため、合理的に物事を考える
 ようになる。日本はモンスーン型、アメリカと欧州は牧場型。砂漠型は
 アフリカやモンゴル。中国はアジアに属するが服従しないという点では特殊。
 農村的なるもののエートスは、共同体を重視するため 近所と波風を立てない
 ことが、まず求められる。あの人は、どう思うかということばかりが気になり、
 常に頭の中に、自分を睥睨する他者の視線が紛れ込んでいる。 現在の日本の
 社会制度はほぼ農村出身者によって作られたもの。たとえば、学校。あれは
 目立たないことを教え、人と違う意見や行動を封じ込める場所。まさに教室と
 いう名の農村。もう一つ、気候と関連するものに地形がある。小さな島国の
 日本人は、外部に対して、まず慌て動揺する。
・ 個人主義化が、歪んで怒れなくなったことも注目すべきである。30年前の
 1982年頃は丁度個人主義が満開に達し、日本中が浮かれ出した。思想界では、
 ポストモダンというバラバラの個人を前提とした考え方が隆盛を極めていた。
 もう一緒に共通の夢、「大きな物語」を追いかける時代は終わったと・・・ 
 それ以降、個人主義が拍車をかけていった。そして誰も怒らなくなった。権利
 意識だけ高まった人を怒って面倒になるなら、自分の夢を追求した方がましだから。
▼ 怒れなくなった若者、切れる老人が多くなったのは、正しい怒り方が出来ない
 からである。デフレ時代の恵まれない時代背景に、どう怒ってよいのか、ただ
 呆然として立ち竦み、怒りの沈殿が、個々人の中で憎しみに変わろうとしている。
 そういえば、北朝鮮の女アナウンサーのコメントは常に怒った内容。そして威嚇
 したもの。内向きの統制が目的のためもあるが、明らかに支離滅裂。とはいえ、
 その対極にあるような日本も間違いなく変。何のポチは怒りを悪と洗脳されたか。

・・・・・・
4487, 怒らないって本当は恐い! ー3
2013年06月29日(土)
                    『怒りの作法』小川仁志 著
   * 怒るとは哲学することである
 考えるきっかけのひとつに「感動すること」がある。ところが、ここで
「怒るとは哲学をすること」と、いう。突然、死に直面すると「まだ遣り残した
ことが多い自分が何ゆえ死ななければならないのか?」という怒りが沸くという。
そして当然、「死とは何?」に行きつく。 怒りは対象を根こそぎ否定し、
一歩踏み込むことになる。 ーその辺りからー
 ≪ 哲学の端緒としての疑う行為とは、「何かおかしい」という、現実に対する
怒りなしには生じえないのです。その意味で、哲学はその出自においてすでに怒り
と密接に絡みあった営みであるということができます。哲学の父とされる
ソクラテスよりも、さらに前の時代の哲学者たちは皆、自然現象のメカニズムに
疑いを投げかけ、これは決して神の仕業などではなく、世の中を構成するもっと
理屈の通った原因によるものにほかならないと考えた。現代社会とは異なり、容赦
ない自然の猛威に為すすべもない時代、彼らは苛立ったことでしょう。自然は何から
できているのか、世界は何でできているのか、いったいこの世の本質とは何なのかと。
その精神を受け継ぎ、哲学は西洋社会で鍛え上げられてきたのです。世の中を説明
するための原理として耐えうるように。そしてデカルトを生み、カントを生み、
へーゲルを生み、二ーチェを生み、今なお多くの哲学者たちが西洋社会で怒りを露わ

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04月29日(水)
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