ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4537, 閑話小題 ー種銭の話 ー2
 若い頃の時間はゆっくり流れる。しかし、年を重ねるとだんだん速く流れるようになる。だから老化というのは、実は、時間の流れを速く
 感じるようになることなのだ。年とともに時間の質が変わってくる、そして、シニアはこの質の変化に戸惑う。
  比喩でいえば、20歳の時は時速20キロで流れ、60歳の時は時速60キロ流れると考えればよい。あまりの速さについて行けず、
 結局は無為に時間を過ごしてしまうことにもなりかねない。】
▼ ここで、これまでの人生の価値観を大転換し、未来中心に向けていた目を、過去にも向け、過去を修正する作業が人生の仕上げになる。
 人生を逆照射し、前向きで時どき見ていた過去を、しっかりと後ろに向き直し、見つめ直す時間も「内なる時間」ということ。
 これまで読んだ本や、読みかけの本に再チャレンジしたり、やり残したことなど幾らでもある。それを坦々とこなすことも内なる時間と
 いえる。そうこう考えると「人生が自分に余白を埋めて欲しいことは何かを聞き出すこと」が必要である。私の場合、この随想日記がある。
 毎朝、これを書き上げた後に、字数制限のため、書いた分だけ過去分の一部をカットする作業がある。これは、過去のエネルギーの
 カットのように思えて辛いが、しかし、その時にしっかりと読み返し、再考することになる。これこそ私の内なる時間になる。
  ・・・・・・・
3432, 再び、死について考えてみる ー1
2010年08月18日(水)
 数日前に近所の家内の友人が急逝した。 最近、「60歳過ぎれば今日明日亡くなっても不思議でない。
今年しか人生が残されていないと一日一生の思いで生きなければ。だからチャンスがあれば、何ごとも可能な限りやらなくては。」
と話したばかり。 哲学でも、死について多く考えられている。
 以下は、「現代哲学の冒険シリーズ」の中の【「死」 細川亮一「恐れと驚きー死と生の問いー」】を参考にして書き上げた。
≪ そこで「死の人称性」は、死を語る上で分かりやすい説明になる。
・まず三人称の死は、「彼らが死んだという過去形」か、「彼は死ぬだろうという未来形」で語られる。
・一人称の死(私の死)は、過去でも現在ではない。将来自分は死ぬだろう、死ぬ運命にある未来形である。
・二人称の死は、「あなたが死んだ」と過去形ではいえない。「あなたは死ぬかもしれない」とはいいえるが、あまり馴染まない。
弔辞でいう「あなたは死んだ」というのは過ぎ去った過去のことでなく、葬儀の現在のことである。したがって、あくまで現在の範疇。 
人の死の人称性の、一人称、二人称、三人称が、 過去・現在・未来の時間性を有しているのである。≫
 ー以上だが、今回のような亡くなる前日に電話をしたが不在といわれた友人が、翌日、そ連れ添いから
「実は死に病で最近になり入院していたが、朝方亡くなった」と電話があり、家内がショックを受けた、という死に話は、
間接にしか知らない二人称の死であり、もっとも死について考えさせるケースである。そこから逆に、死から生への逆照射をすると、
【生きるとは何か】のヒントが、みえてくる。【私は生まれた】と、逆に私の誕生を過去形でしかいい得ない。未来の死と、過去の誕生、
「現在、生きている私こそ、この世の存在」ということになる。だから、現在、四苦八苦としても、それを生きる証として受け止めるのが自然。
私の死と誕生の、死の時点は、私にとって特異点。 この2つの特異点の間が「私が生きている」現在形として語ってよい。
自分の過去も、現在、そして未来を思い浮かべている現在も含め、全てが現在と言いうるのではないか。
そこにベルクソンの時間論の意味が、ある。時間など人間の主観?の捉え方でしかないと。
 で、二人称の死から考えられるのが、自分の死と生のイメージの絵の書き加え、修正作用となる。
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3057,逆説思考
 2009年08月18日(火)
 「逆説思考」というのがある。哲学は、常識をまずは疑ってかかる。
「逆ではないかい?」と、まずは逆説をたてることから始める。私が学生時代に学んだことは、これだった。 

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08月18日(日)
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