ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■3162,人生に関する小題
とすれば、アメリカの国債を半強制的に持たされた日本は、アルゼンチン並みへのプロセスに入るのは当然である。
(σ’д゜)バイ!
・・・・・・
2006年12月01日(金)
2068, あたりまえなことばかり −19
(+>∀<+)ノ おぁはは〜ようさん!
哲学的にみると、トラウマ「心的外傷」に対して、心は物理的に存在していないのだから、外傷と言えないという。
しかし深い悩みを持った人は、心を肉体に喩えると大きな傷を負っている。大きな傷として仮定して、その傷口を消毒し、
外科的な手当てが必要である。それが精神科であり、セラピーの役割となる。それぞれの立場・見方も必要である。
以前は、癒しなどの言葉は無かった。精神科があってもセラピーなどあったのだろか。手相などの占いが、昔流の
セラピーの役割をしていたのだろう。私の場合の心の危機の場合、読書、音楽、ウォーキング、酒を飲んだり、
このHPなど、癒しそのものである。最近は、これに早朝の曼荼羅モーニング・ページである。
それに毎朝の仏壇の前の祈りもある。ストレスなど溜まるわけがないが、それでも少しは溜まる。
自分の連れ添いが自殺したり、子供が自分のミスで死んだりした時に、癒しなどという言葉は、
あまりにも甘く聞こえてくる。自分で自分を救う以外ないだろうが、自分で自分を癒すなどできはしない。
そう考えると、癒しとは「目先の心の傷を応急処理すること」ということになる。
それも大事なことである。それをしなかった為、精神病になる糸口になるからである。
まあ、この本の抜粋もなかなか面白いが・・・
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どうすれば癒されるのか
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癒しは「ストレス発散」「コンプレックス解消」に比べると、具体性に欠ける。ストレス解消のためカラオケに行く。
コンプレックス解消のために化粧をするという具体性は無い。 何となくふわふわと浮わついた「雰囲気気」、
それが当の癒しであるとするならば何となく納得する。 だとしたら、癒されるべき傷などどこにも無かったか、
その程度のものである。具体的なものが見えないから、漠然とした物欲しげなそこへ、各種のグッズやセラピーが
商品として流通するという構図である。しかし、受動態「癒される」の主語あくまでも「自分」なのだから、
主語を支点にこれを能動態に変換すれば、「自分が自分を癒す」になる。「癒し」とは、各種グッズやセラピーによって、
自分で自分を癒す能動的行為であると言うこともできる。自分で自分を癒すとは、どういうことであろうか。
癒すためには癒されるべき傷がなくてはならない。傷とは何であろうか。傷ついているのは自分である。
そう思っているのは誰だろうか。「自己治癒」という、いっけん明瞭なようなこの概念は、日常レベルの予測を
はるかに超えた、広がりと奥行きと複雑さを持っている。それは、一般的な問いのある種の逆転によって垣間見られる。
「私とは何か」 −>「何が私であるのか」 「心とは何であるか」−>「何が心であるか」
「心はどこにあるか」ではない。「何が心であるか」である。「どこに」は、既に三次元空間内にそれがある存在している
ことを前提としている。脳も心もこの三次元空間内の物体である。しかし、心の痛みは、その痛みはそのものは、物理的な
存在ではない。本来、物理的な存在でないものを、物理的な存在であるように表象する、もしくは表象させるそのような
命名が、多くの誤解を生じさせている。トラウマ「心的外傷」、その視覚的イメージが、何がしかの塊り状のものが、
傷口を空けているという光景である。 心的外傷、すなわち心が外から受ける傷である。
物理的でないものの、「外」、その「内」とは、どのような区分であろうか。「心の外」とは、どこを指すのであろうか。
「心」に外と内があるというのは、これも長い我われの錯誤は、「私」が身体であるという一方の強力な錯誤と手を組んで、
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12月01日(火)
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