ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■3144,「法則」のトリセツ ー5
コミックとしてしか誰も観ていないか、いやまともに見ているから恐ろしいのか!
ーー
「あたりまえなことばかり」
?・ 幸福はどこにあるのか ー ?
何ものでもない心の状態としての幸福というものを、ほとんどの人は物質に似たものとして人は思い込んでしまう。
人は「思い込みの動物」である。 動物存在として「カタチあるもの」をのみ幸福と思い込むのは自然である。
そのレベルでは、目に見え、触れるもののみが存在する。生存するために存在する。
しかし動物は、そのような自身のありように自身のありようを問わないであろう。人間のみが、その生存において、
自身の孝・不幸を問う。このとき、その理由によって孝・不幸は一つの思い込みになる。
カタチあるものを、カタチない孝・不幸と同じように、カタチないものを、カタチあるものに孝・不幸を求めてしまう。
カタチなきものを、カタチあるように思い込む、 の思い込まれる思い込みを、通常は「観念」という。
孝・不幸もその意味で観念である。幸福とは何がしかカタチないものと予感しながら、カタチ無いままにさせて
おくことが出来ず、何がしかのカタチあるものとして捉えては、捉われる、とか。例えば、カタチなきもので
あるはずの「愛情」を求めようとして、人は結婚や家庭というカタチを求める。
あるいは、カタチなどあろうはずが無い「自由」を求めようとして、「自由」「自己実現」というカタチを求める。
はたして幸福でない心に、幸福な生活があり得るだろうか。心は、いわば分母の一のようなもの。心が不幸であれば、
いかなる分子も不幸であろう。分母が幸福であれば、いかなる分子も幸福であろう。あれこれの生活のありようなど
所詮は分子的な存在でしかない。ここで問題のなるのは、「私」とは、では誰のことなのか。
他人と比べての孝・不幸であるところの「私」とは誰なのかの問題になってくる。
「私は私である」「私は個人である」とは、「私とは誰なのか」という問いを止めてしまった我われの思い込みである。
この限り「私」とは、一つの観念なのである。人は自分を「個人」と思い込むことによって「幸福を個人の領域」
に押し込んでしまう。財産や地位など有形のものも等しく「個人の所有」とみなして、その所有を幸福と思う。
したがって、このとき「私」と「幸福」との間に、定義に大きな懸隔があることになる。
所有者は所有物ではないからだ。 主体の「私」は、客体の「幸福」ではない。
「『私』は『幸福』でない」、つまり「私は幸福ではない」のことになる。
個人がそれを所有するという仕方で人は幸福であり得ないのが、幸福は所有物でない理由よりも、
むしろ「私」は個人であるという理由によっている。
もっと言うならば「私」というものは「ない」。 「ない」ものが何かを所有することなどできない。
その理由で、人は「私は幸福になりたい」という仕方では幸福になることはできない。
「私は私である」「私は個人である」「私は存在する」という「私」をめぐる長い思い込みは、
さらに「私は死ぬ」「人生は一度きりである」、「だから私は幸福でなければならない」
などの観念へと分岐し、いよいよ我をかきたてる。 「死後、幸福なる」という奇妙な観念は、その一種といえよう。
ーー
字数の関係で、次回になるが、内容は仏教の滅私の世界になってくる。
まあ哲学も、宗教も重なりはあって当然だが、「私」を考えると尽きることはない。
{「私は私である」「私は個人である」とは、「私とは誰なのか」という問いを止めてしまった我われの思い込みである。
この限り「私」とは、一つの観念なのである。} の部分も深く考えてみる必要がある。
超越確実言明の「私は私、他人は他人」は、思い込みでしかなかった、ということ?
これに気づいた時、誰もが慄然とするのだろうが、誰も気が付かないうちに生前に戻ってしまう?
(。^0^。)ノ サイナラ!
・・・・・・・・
2005年11月13日(日)
1685, ザ・マインドマップ−3 −読書日記
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