ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■3024,明治・大正と昭和・平成の符号説
ー 月刊・新潮45?2007年・5月号ーより P-152
ーー
池田晶子さんが亡くなった。四十六歳の若さである。新聞報道は三月二日の読売新聞が最初だが、
私は翌三日の朝日新聞社会面で知った。昨年末、新潮社の編集者と忘年会と称して呑んだとき、
彼女が癌を患っていることは聞かされていた。その口ぶりから、末期ということはわかったが、
こんなに阜く逝くとは思わなかった。ショックはないと自分に言いきかせていたが、その日大学にいても
彼女のことばかりを考えて過ごした。いままで意図的に避けてきたが、ある種の独特の形で哲学に
携わった彼女に対する自分の気持ち(評価)をごまかすことなく語ってみようと思う。
池田さんとは四、五回会っている。はじめは十五年以上も前のことであるが、
(いま慶応大学の教授である)斎藤慶典さんが「おもしろいことを書く人が後輩にいるから」
と「大森先生を囲む会(略して「大森会」)」に連れてきたのだ。
池田さんは例会の日に、教室の入り口でそっとお辞儀をして入ってきた。
そのころ彼女は三十歳位であり、とびきり美人であることは誰の眼にも明らかだったが、そこにいた参加者たちは
まったく無視していた。水玉の(?)袖が長めの白っぽいワンピースを着ていたように記憶している。
池田さんは、当時まったく哲学仲間のあいだでは知られておらず、まだ本を二冊書いた程度であったから、
世間的には、ほぼ無名であった。そこには、永井均、野矢羨樹、飯田隆、丹治個治、・・・など、
いまや日本哲学界を担う人々が決集していたが、当時彼らは哲学界という狭い世界の中では評価されていたが、
誰も世間的には有名ではなかった。
永井さんが有名になったのは『〈子ども〉のための哲学』あたりからであり、それが講談社のPR誌『本』に掲載されて
いたとろから評判であった。そして、一九九五年の夏に『ソフィーの世界」が大ペストセラーになると相前後して出版界は
「哲学ブーム」という軽薄な掛け声と共もに浮かれ出し、池田さんの『帰ってきたソクラテス」(新潮杜)、
永井さんの『ウィトゲンシュタイン入門」(ちくま新書)、木田元さんの「反哲学史」など、それぞれ部数を仲ぱした。・・(中略)
池田さんは、例会のあと渋谷での呑み会にも時々参加した。何を話したかすっかり忘れたが、彼女としぼらく話し込んでいると、
丹治君がまん前に座り込んで、しげしげと二人を見比べ「やっぱり綺麗っていいもんだねえ」と言った。
私がそのあとを受けついで、「池田さんの欠点は、綺麗すぎる乙とレと言うと、彼女はのけぞっで笑い
「そうなの、中島さん?!」と言って、私の膝を,ハシヅと叩いた。・・・(中略)
ある日、呑み会のあとで、数人を彼女の行きつけのバーに連れて行ってくれた。
彼女は真紅のツーピースに銀の靴を履いて、(私の正直な印象なのだが)マネキンのように綺麗だった。
挟い階段を上がって薄暗い郎屋に入り一番奥のソファーに陣取った。そこで野矢君が「池田さん、自分で問いを出して
自分で全部答えているから、読者は必要ない」と言ったら、ふんふんと頷いていた。
田島君がカフカについて話していたのをぼんやり覚えている。
池田さんが「私、街を歩くとき、いつも耳栓しているの」と言ったことも覚えているから、
たぶん私は後に『うるさい日本の私』(新潮支庫)として刊行される騒音の話をしていたのであろう。
何回目の大森会か記憶が定かではないが、帰りがけに駒場東大前の駅で、ごそごそ鞄の中から、
彼女の著書『事象そのものへ!』を取り出して、「中島さん、法蔵館っでずるい会社だから、
出版してはいけませんよ」といった。私が彼女かららもらったのは、これと『考える人ーロ伝西洋哲学史」(中公文庫)だけ。
ふたりともその後著述業で忙しくなると、お互い一切の関係をもたなくなった。
やがて破女は大森会にも参加しなくなった。これも、自然の成り行きだと思う。
ーー ーつづく
彼女の文章からは、こういう姿は窺い知れない。 どの世界も大変である。
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07月16日(木)
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