ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4817,いま、一人前の条件
 人生の大問題は死期が迫り、もう先はないと悟った時の恐怖である。脳溢血や事故で即死なら別だが、誰もが最期の最期に
行き当たる大問題。だから著者の言葉は平易だが、どれもこれも深い。死を扱っていると同時に、如何に生きるかの問題でもある。
この年齢になると誰も明日にでも突きつけられる可能性のある。だから「死を解決する登山道」という。初めは軽い気持ちで
読んでいたが、読むほどに哲学の総論を読んでいるようになる。 ーここまで書ききれなかった印象的部分を抜粋してみるー
・切腹を辞さないほどの死の覚悟を常に持つということは、欲の超越、自我の超越、生死という二項対立の超越だ。
・むしろ21世紀は、世界が日本化し、日本も日本思想に戻っていく時代なのではないかと思う。
 もちろん、ここでいう日本思想とは、明治に回帰したいという現代保守主義ではない。
 もっと前からの日本思想の原点は、無我・無私の心、静かな達人の心だ。
・自己保存本能を超越し、何の因果かこの世に生まれてきたことに感謝し、今この一瞬に集中してこの幻想としての自己の
 存在という奇跡を心から祝福する気持ち。悩みや我欲を超越し、世界を愛し、自分が世界と一体であることを喜び、
 それ以外に何も要らないし、もちろん手にも入らないことを理解する境地。身体で、感性として理解する境地。
・死本来の恐ろしさとは、無で「ある」ことでなく、なぜかいったん存在してしまったものが無に「なる」ところにある。
・感覚ではなく心の中の何かに向けられるクオリアを、志向的クオリアという。「死が怖い」という感じもクオリアだ。
 「怖さ」のぞっとした感じが心の中からわき上がってくる。
・人間として生まれ落ちて以来身に付けているこのいきいきとしたクオリア。これを失いたくないということが、死にたくない
 ということと、根本的な意味では同義なように思われる。このかけがいのないクオリアは、あろうことか幻想。本当はないのだ。
 脳の無意識の計算がやっていることなのだ。
・知情意のクオリアは結びつけ問題を解くためにあるのか? 僕たちが生まれる前は、もちろん知情意のクオリアなんてなかった。
 何もなかった。無だ。ところが何の因果か、僕たちは、たまたま知情意のクオリアという幻想を持った生物として生まれ落ちた。
 だから、生きている感じがしている。
・僕は「意識は体験を記憶するために作り出された機能だ」と考える。意識は、主体的に行動を作り出すためにあるのではなく、 
 あらかじめ作られていた演技を体感し、体感したという事実を記憶するための機能である。
 僕たちが生まれる前は、もちろん知情意のクオリアなんかなかった。何もなかった。無だ。ところが、何の因果か、
 僕たちは知情意のクオリアという幻想を持った生物として生まれ落ちた。だから生きている感じがしている。
 しかし、ほんとうは人間もロボットと同じ自動機械なのだ。
・そもそも、自分が、自由意志や自由な知覚を持っていると思うから、死にたくないと思うのだ。
 ▼ 知情意のクオリアも、心の中の何かに向けられる志向的クオリアも、幻想でしかない。実際にそうなのだから、
  「死ぬのが怖い」というのは幻想そのもの。半世紀以上以前の中学校の頃、ひとり死を考えて、底知れぬ恐怖を
  覚えていた時を考えれば、その恐怖感は、幻想でしかないことが分かるはず。間近に迫った死を覚悟した時から
  死ぬまでの間に、それまで生きてきた全人生を生きる、という。その時に「これは幻想でしかない」と、思えるのか。
・・・・・・・
4076, 老いの見本帳ーダークサイド ー1
2012年05月23日(水)
                「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日 武彦 (著)
 面白い本を図書館で見つけた。一日一日、老いていく日々だが、どうも心は歳を取そこねている。実感がわかないのである。
この本は老いの見本帳、それも老醜の見本帳である。わざわざ自虐的な、マゾ的な、げんなりするような事が書いてある。
<・・人生など呻き声をあげたくなるようなことの連続ではないか。まして老いたら、それはそれで独自の当惑や「釦の掛け違い」、

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05月23日(金)
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