ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4553, 51年前の小学校の写真にタイムスリップ ー2
≪●「実際に起こった事象『事実』に対して、それを個人、または集団の心理、または理解を通して視られるものが『真実』である」
● 事実と真実の違いは、5Wのうち「いつ、どこで、だれが、何を」について言うのが事実です。
表面には現れない「なぜ?」を見つけるのが真実を見つけるということ。 真実を追求するというのは、事件や問題の
背後にある何故そうなのか、を見つけること。
● 真実・・・嘘のないこと、本当のこと
事実・・・現実に起きたこと 本来なら、「真実」=「事実」にならなければならないが、そうはならないことが多く、
「多くの人間は見たい現実しか見ない」。 真実とは「見た人が見たい現実をみているもの」、 事実は一つだが真実は
人の数ほどある。 真実はそれを口にする人の価値観と切っても切り離せない。 「事実」は人間の外部にあるものだが、
「真実」は人間の内部にあるもの。「客観的事実」という言葉はあっても「客観的真実」という言葉を聞かない。
問題は、人の認識がそういうものである以上、はたして、「事実」を「事実」として認識できるのか?という問題が生じる。
そうなると、「真実」というのは本当にあるのか?という疑問も生じてくる。≫
▼ 寺山修司の言葉に「真実の最大の敵は事実である」がある。真実は、事実の中にある、それぞれの解釈でしかない場合が
多いからである。世間では「事実の最大の敵はウワサである」になる。それがウワサがB級層では事実になってしまう。
教養とは、そのへんを見分ける知識の蓄積をいうが、とにもかくにも考えない人が多い。ひと事ではないが。そういえば、
学生時代のゼミで、ケーススタディを一年間、してみた。次回分のケースのプリントを渡された内容を10人ずつ二グループに
分かれて議論して、それを持寄り20人の円座を組んで再び議論する。提出された問題の中の答えとの誤差を、更に議論する。
半年も月4回もしているうち、その誤差が無くなっている。事実=現象の中の真実、真理を見通す能力の訓練だったことになる。
・・・・・・
3813, 無知の涙
2011年09月03日(土)
* 問題は悪意より無知から生じる――ハンロンの剃刀
ー「ハンロンの剃刀」とはー
「無能で説明できる現象に悪意を見出すな(愚かさによって充分に説明できることを悪意のせいにすな。)」
頭にきた行為が愚かさで説明できれば、必要以上に悪意を想定するな!ということ。
この定理を知ると、不満やトラブルに遭遇した時に、相手が本当に悪意に基づくものか、無知や愚かさからくるものか、を
間をもって判断できる。 そうすれば、その大部分が無知からきていることを知る。 しかし現実に厄介なのは、悪意より
無知からくる方で、無知の自覚がないから始末が悪い。 「知らぬが仏の恐ろしさ」を、他者に、あまりに多く見てきた。
いや、それ以上に過っての自分を振り返ると無知の涙を経験してきた。今もか。 人生は無知から生じる問題を解決するプロセス。
大体のことが、この法則で(少なくとも他人への)怒りをなだめることができる。それで問題は半減する。
「本来、人を理解するのは至難のわざ」である。 自分さえ分からないのに、他人のことなど分かるわけがない。
その他者に悪意を見出しても何にもならない、という道理は納得できる。 一番怖いのは、無知の善意。あとで、悪意がついてくる。
ー「ハンロンの剃刀」をネット検索で調べるとー
【 ハンロンの剃刀とは、オッカムの剃刀の代用品である。あくまで代用品なので、切れ味はそれなりである。
しかし、その切れ味の悪さは単に研磨屋の腕が悪かったり、粗悪な鋼を使ったりしているためであって、別に悪気があった訳ではない。
もちろん穿った見方をすれば「腕を磨いておかないのは研磨屋の怠慢すなわち悪意である」とか 「素材に良質な鋼を用いないのは
商業倫理に悖る卑劣な行為」とか言えないこともないが、そう何でもかんでもバッサリと切り捨てないのが優しさと言うもの。
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09月03日(火)
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