ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4536, 閑話小題 ー種銭の話
4161, 節目時に何をしていたか ー1
2012年08月17日(金)
  ここで人生を5年スパンに区切り、振り返ってみる。ミニ自分史である。自分の姿が浮き上がってくるようで、面白い。
 何度も書くが両親と時代に恵まれていたことが見て取れる。歴史的にみて、終戦後40年間ほど豊かだった時期はないという。
 その中で、その豊かさを充分味わった実感は、何ものにも代え難い財産である。   ー まずは前半から ー
・60年前=6歳、長岡市立阪之上小学校一年生だった。担任は女性の茨城先生。20歳後半のヒステリックの先生で、
  優しい反面、厳しい先生だった。当時の住まいは長岡一番の繁華街の4階建てのビルの3Fに住んでいた。家は、そこで
  衣料店を経営していて、まさに小説のような異様な家庭環境にあった。成績は普通で、とにかく毎日が面白く刺激的だった。
・55年前=11歳、阪之上小学校6年。勉強に少し目覚め、虐めの要素もあったが級長にされていた。街中もあり、生徒の質は
  決して悪くはなかったが、異様な緊張した雰囲気が漂っていた。この辺で、その人の素質が決まってしまうという。
・50年前=長岡高校二年生で、試験試験の日々。何時もギリギリの成績だったが、追試は受けたことがなかった。
  勉強をすれど、どうしたら成績が上がるかの術が分からない辛く暗い日々。受験校のため成績で人間が区分されていた。
・45年前=21歳、立教大學三年。欧州の30日間旅行で、それまでの自分が粉々に壊れてしまった時期。人生で一番、光っていた。
  見るもの触るもの全てが新鮮で、明るく光ってみえていた。時代は1967年、日本も山頂に近づいていた。
・40年前=金沢の‘いとはん’(衣料スーパーのチェーン)を辞めて実家に帰ってきて、千葉の千城台ビルの計画に入っていた。
  父は末期ガンで東京女子医大で手術後、退院した父親と、計画を進めていた。父は、医者の宣言通りに手術の一年後に亡くなった。
  死期が分かっている父と事業経験の伝達を一年がかりで始めて二ヶ月目に入っていた。将来に向けた明るさと、死に直面した
  父親の苦悩の狭間で、真近で人生と事業の原点を学んでいた。翌年、石油ショックが起き、最悪の出だしになった。
・35年前=長岡の大手通の四角にある実家の衣料量販店の店長で、4歳の頃のできた古ビルの建て替え工事の計画に没頭していた。
  引き継いだ店も順調に推移、商売が面白く、身体が浮いているように動いていた。一種の躁状態で、怖いものなし、目は血走り、
  何かに取り付かれているようだった。衣料は一シーズンごとに完結する博打的要素が強い。そのコツを掴むと、これが面白い。
   30年前からは次回にするが、振り返ると刺激的で、恵まれていた背景があった。
・・・・・・・
3796, 「役に立つ」とは?
2011年08月17日(水)
 * 「役に立つ、立たない」を判断基準にしてないか?
 私たちは、何時の間にか、役に立つか、役に立たないか、で物事を判断してしまう。その是非は色いろあるが・・
しかし経験則で、我われは役に立つ立たないは結果でしかないことに気づいている。教養は、その最たるもの。教養を役立てるために
身につける人はいない。これは目的でも手段でもなく、人間性の素養として積み上げること、そのことに意味(価値)がある。
哲学などは、目先、役に立たない。しかし自分の頭で考え、判断し、その結果を積み上げていくのが人生である。 それを放棄し、
目先の利益になるかどうかで判断したり、直ぐに手軽な身近な人の意見に従って判断、決断をしてしまい、重大なミスをする。
その辺のところを、今回の変動の中で、しっかりと見せてもらった。(実は、その最たるものが自分?)
 〜 哲学者?の池田昌子は、著書の中で、鋭く指摘している。(「メタフィジカル・パンチ」ー学者さんー)〜
【 「学者」というと、役にたたないことをする人という自嘲気味な言葉が風潮になっている。「学問をするところ」であったはずの
 大学という場所が、レジャーランドか、就職予備校に変わってしまった世の流れに呼応しているのだろう。「学問」すなわち

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08月17日(土)
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