ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4435, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか −5
≪ これをふつうは「われ事に於て後悔せず」と読む。小林秀雄は「わが事に於て」と読むほうがよかろうと言っていて、その意は、
「その日その日が自己批判に暮れる様な道を何処まで歩いても、批判する主体の姿に出会ふ事はない。別な道が吃度あるのだ、
自分といふ本体に出会ふ道があるのだ。 後悔などといふお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、さういふ確信を
武蔵は語ってゐるのである」(小林秀雄『私の人生観』)と説明している。 自分の過去の行動についてあとから、あれは間違っていた、
などとそのたびに後悔するようでは、後悔というものを受け入れるようでは、ひとは本当の自己に出会うことはできぬ、というのだ。
小林秀雄は武蔵の言葉をかりてつまりはそれが言いたかったのだが、このことは今ぼくらの考えている「自己への忠誠」にあてはまる・・・
◎『自己に対する何という無礼だ、その決心をした時より今の自分の方が利ロだと、どうして思うのか。』スタンダール「パルムの僧院」
これぞ言葉の中の言葉だ、これほどにひとを励まし、自己への忠誠を元気づける言葉を、ぼくはほかに知らない。 武蔵の箴言は
いささか道学者くさいが、ここには自己であることの純粋なよろこびがある。・・これはスタンダールの全作品に鳴りわたっている言葉。
◎ ースタンダールはそのすぐ前で公爵夫人の性格についてもこう言っている。公爵夫人の性格には二つの特徴があった。
彼女は一度欲したことはあくまでも欲した。また一度きめたことはけっして論議しなかった。
◎ ー彼女は偶然にまかせ、そのときどきの快楽のために行動してきた。しかしどんな行動に身を委ねる場合でも、断乎として行なった。
あとで冷静に返っても、けっして自分を非難しなかった。まして後悔しなかった。自己にたいする忠誠とはかくのごときものであるかと
若い日に讃嘆させられて以来、これらの言葉はそのときどきにつねにある内耳器官のごときものとなって、ぼくを導いてきた小説の
主人公ではないか、とバカにしてはいけない。 ≫
▼ 小林秀雄に「無私の精神」という文章がある。実践家は、自我を押し通す人と思いがちだが、実は無私の人である。
彼は無私に徹しなければ物事は成就しないことを知っている。極限に立ってきた人は後悔などしない。 そこで自分を押し殺し、
己を抑えるほど物事は大きく成就してきたことを知っているからだ。 後悔は、実践の中では後々、害になることもである。
・・・・・・・
3695, 自己を見つめる −17
2011年05月08日(日) 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
還暦もとうに過ぎ、更に65歳になったとたん、事業は、これ。 それは本格的な老いへの第一歩を踏み込んだ現象だろう。
歳には勝てない現実が誰にも待っている。それに対し抵抗を諦め、従うしかない。それが老いと著者はいう。
そして、それが恵まれた状態で向えようが、悲惨な状態であろうが、直ぐにやってくる死を前にすれば、誰も彼も大して
変わらないことは、今更言うまでもない。それぞれの年齢の老いの景色は変わっていくが、殺風景になっていく経験も
辛いものがある。 しかし、それでも、生きているだけでも有り難いと思えるうちは良いが。
* 老いについて ー@ −P262
【 老いは、端的に言って、心身の変化や不調、障害や不全、病気や悩、生計の面での困難や窮迫、人間関係における亀裂や別離、
忘恩や裏切り、さらには長年の人生遍歴における事故や災害、対立や紛争などの側面の出現といった、ありとあらゆる不幸な事態の
顕在化という姿を取って、人生の暗い側面を表す顛末の様相を帯びながら迫ってくる傾向が強い。もちろん、明るく幸せな老年という
ものも存在するであろう。 けれども、老いは、もともと死の予感とも結びついて、悲惨な様相の影を本質的に内在させている。
老いは、総じて、誰もがそこから眼を背けたがる暗黒の象徴を含むものとして受け取られる面を含んだ現象であることは否定する
ことができない。 実際、ショーペンハウアーも指摘したように、年を取って、生計に困り、病気がちとなったら、その人の晩年が
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05月08日(水)
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