ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2429, 20世紀を生き、21世紀を覗き見て
肉体として消滅してなお、死者は生者の記憶として存在する。
死者の記憶を心に抱いて、生者もまた死者になる。
それなら、その人が存在したということはなかったことになるだろうか。
そんなことはあり得ない。存在したことは、存在する。すなわち過去は現在である。
全過去はこの現在に存在しているということだ。
全過去の記憶を現在として保有する「心」とは、その意味で、存在そのものではなかろうか。
記憶は、「心の中」存在するのではない。 記憶こそが存在する現在である。
逆に、我われが現在生きるとは、存在の記憶を生きることである。
死者の記憶が存在の一風景なら、
現在に自身を生きていると思っている生者にとってそうだろう。
自身の生の記憶を抱いて、生者も死者になる。
このように自覚する時、生きているか、死んでいるかは、
もはや存在の記憶として明滅する我われの、仮の衣装にすぎなくなる。
さらには、生者の記憶にその姿で存在している死者も、
別の衣装をきて何処にか存在するだろう。
存在しないということはないからである。
ここで時系列の逆の側、すなわち未来の意味が現れる。
したがって、未来もまた存在の記憶と言えよう。
生きてきたのは誰なのか。裏返し、生きているのは誰なのか。
にもかかわらず、明らかに、他の誰かでない彼であるところのその人は、存在した。
ある時そこに生きていた。
言葉の正確な意味で「唯一無二の」その人を喪って、喪った人はその人の死を悲しむ。
やがては、時間が心を癒すだろう。 彼の存在を、無限的存在のひとつの風景として
見ることができるようになった時、「一期一会」、この奇跡的出来事への感謝の感情が、
地上にあることの悲しみの感情に、代われるのではないか。
−−−
現在、こうしてあること、そして考えている自分を、
あらためて振り返ると、本当の不思議そのものである。
大いなる孤独が、宇宙に浮いているという感覚になる。
└(=^O^=) バイバイ!
・・・・・・・・・
2005年11月28日(月)
1700, 人生の価値についてー2 (*´o)*ゞふぁぁ
このHPの維持も、「退屈と不安の解消が目的か?」と、
問われれば、「目的ではないが、手段である」が答えになる。
退屈に対して、これだけ赤裸々に抉っているのも珍しい。
「小人閑居して不善をなす」というが、閑居に対する姿勢が小人かどうかを決めるのだろう。
閑居は何か悪いように錯覚するが、逆に最も大事なことである。
アラブの遊牧民は、閑居を第三の時間ー瞑想 ( ̄^ ̄)
(仕事と遊びと、そして休みの時間)として、一番大事にしている。
第104節の「人生の退屈そして不安 」でさらに、生きるとは何かをさらに掘り下げている。
何ヶ所か抜粋してみる。
φ(・_・)
ードストエフスキーはシベリアの徒刑地で、
懲役の労働が囚人達に苛酷なのは、仕事の内容のつらさではないという。
つらさという点では農民の方がよほど苛酷なはずだ。
しかし、農民には自分のために働いているという目的がある。
だが懲役の労働には目的も意味もない。
それが刑罰の刑罰たるゆえんである。
ー彼は囚人達が「意味の無い労働」でない、
例えば家を建てる仕事を与えられると、
にわかに夢中になり、生き生きしてくるさまを伝えている。
強制労働で立派な家を建てても、賞金がもらえるわけではないし、
刑期が短くなるわけでもない。
それでも囚人達は少しでも具合よく、良い家を仕上げようと
一生懸命になるという彼の深い観察のうちに、人間の生きる目的
ということの秘密が宿っているのではないだろうか。」
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