ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2430, <おばあちゃん> 『いのちの書』ーより
「ちくま哲学の森」シリーズの第2巻の『いのちの書』
という生死の関する22人の内容が驚く内容の連続である。
死刑の立ち会いの詳細、実際に拷問にあった本人の手記、臨終のこととか。
死に関しては、日常の中では、誰もが見てみないふりをする。
しかし書き手が言葉として書き連ねると、それ自体が物語になるだけの深みを持つ。

この本の冒頭の金子光晴の詩がよい。

 ーーー
<おばあちゃん>  金子光晴

『若葉』のおばあちゃんは
もう二十年近くもねてゐる。
すべり台のやうな傾斜のベッドに
首にギプスをして上むいたまま。

 はじめはふしぎそうだったが
いまでは、おばあちゃんときくと
すぐ<ねんね>とこたえる『若葉』。

 なんにもできないおばあちゃんを
どうやら赤ん坊と思ってゐるらしく
サブレや飴玉を口にさしこみにゆく。

 むかしは、蝶々のやふにへんぺんと
香水の匂ふそらをとびまはった
おばあちゃんの追憶は涯なく、ひろがる

 そしておばあちゃんは考える。
おもひのこりのない花の人生を
『若葉』の手をとって教へてやりたいと。

ダンディズムのおばあちゃんは
若い日身につけた宝石や毛皮を
みんな、『若葉』にのこしたいと。

できるならば、老いの醜さや、
病みほけたみじめなおばあちゃんを
『若葉』のおもいでにのこすまいと。

 おばあちゃんのねむっている眼頭に
じんわりと涙がわき 枕にころがる。
願ひがみなむりとわかってゐるからだ。

ーー
ある伯母が晩年に「歳をとることは、無念なこと」
と言っていたとを、聞いたことがある。
 
 偶然に去年、老いを取上げていた!
・・・・・・・・・
2006年11月29日(水)
2066, あたりまえなことばかり −17
            おふぁ  ファ〜

そろそろ、死に支度モードに入らなくては、と思っていたが。
チョッと待てよ!死なないのだから、そんな準備などする必要はない。
が、しかし歳相応にギアを変える必要はある。 還暦を過ぎたのだから・・・
 
    両親の死に際に、二人とも同居していた。
    そして「老いる」姿と、肉体的終末を看取って、
    決して歳をとるのも悪くはないと実感した経験がある。
    さらに老いた色いろな人と人生を多く語り合った。
    だからこそ、老いることはまんざらでもないことを知っている。
    一つだけ「死は存在しない」ことを、彼らが知らなかったのを除けば。
    「死は観念でしかない」ことが、解るはずはないのは当然である。

 母親が、痴呆になっても学ぼうとする姿勢が見えた。
 これである、魂は永遠の学びをしていく。
 ただし、それなりの人生を活きてこそ、だが・・

ーーーーーーーーーー
老いは個人の生を超え
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人は、老いるという存在の現象を、なかなか素直に認めることができない。
それを否定的に感じてしまうのは、若さという経験を先にしてしまうからだ。
やがて人は、例外なく順番に40,50歳と年齢を重ね、老いるという
現実を肉体の事実として知ることになる。
老いることは死と違って逃れようもない現実である。

    生きられてしまった事柄とは、端的にかこである。それは動かせない事実である。
    過去は動かせないと知るということは、自分の人生がそのようであったと、
    それ以外ではあり得なかった、このとき、人は人生の一回性の秘密に
    触れているのだが、多くの場合それは、それぞれの感情や感傷によって
    覆い隠されてしまう。記憶に苦痛の伴わない人は幸福である。
    過去は動かせない、しかし動かせる未来もない。
    なぜ自分の人生はこのようでしかあり得なかったという、存在への問いが、
    溜息に等しいような老いの時間は哀しい。

生きるということを、物理的肉体の生存と定義するなら、
老いていく過程として生きていくのは、肉体を失っていく過程である。

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11月29日(木)
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