ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■1981, 歩行とダンスー2
一度だけの人生、肯定的な感情で、かつ自分の欲求を満たさなかったら、
人生を浪費していることになる。
特に人生の後半は前半ほど単純ではない。多くの過去を背負っているからである。
ならばこそ、その中で「楽しく生きる」喜びも深くなる。

文筆家(哲学者)池田晶子 の
「楽しく生きるためにどうすべきか」という文章がよい。
彼女は、哲学することの意味を平易な言葉で語ることに定評がある。

ーまずは、彼女の文章をそのまま書き写してみる。
 
 人生は短い。と、どうしてもやはり思いますよね。
平均寿命は80とは言われますが、歳をとってからできることは当然若い頃より制限されますし、
ましてやその歳まで生きるかどうかの保証はどこにもないわけです。
ひょっとしたら、明日、心臓発作で死ぬかもしれない。
 
縁起でもないと、普通はやはり思いますよね。
しかし、よく考えてみると、いやよく考えるなどしなくても、生きている限り人が死ぬのは
当たり前で、この当たり前を当たり前として認識しているかどうかで、人の人生観は全然違った
ものになるようです。
今のここに死はあるからこそ今のここの生はあるのだと思えば、人生は長いとか短いとか
言いようもなくなるはずだからです。

だって、いつだって、「この今」しかないのだから。
「この今」しかないと気づけば、先のことをあれこれ悩んで苦しむことはなくなるようです。
悩みや苦しみというのは、人生には先があるとする錯覚的時間認識が作り出す、
まあ一種の気の迷いみたいなもんでしょう。
未来への不安、もしくは過去への後悔、いずれも時間認識の勘違いです。
だって、未来や過去を悩んだり苦しんだりしているのは、まさしくこの現在ではないですか。
あ、なあんだ。 と、気がつけば、錯覚としての悩みや苦しみは脱落します。
そして、なんらそういった感情は湧かなくなり、逆に楽しみや喜びといった感情が湧いてくる
ようになるようです。むろん、悩みや苦しみのタネは変わらずに存在していますよね。
我々は生身の存在だからです。仕事上の悩みが存在すれば、病いの苦しみだって存在する。
それは偽りのない事実です。

しかし、それらを言わば受け身で悩み苦しんでいるということではなくて、
妙な言い方ですが、
悩むことを楽しむとか、苦しむことを喜ぶとか、そんなふうに変えられるようです。
要するに、楽しみや喜びというのは、どこか外にあるものではなくて、
自分の側の心の構えのことだということです。それを楽しんでやろうという構えでいれば、
それが何なのであれ、それはその人にとって楽しみとなるはずです。
楽しむということは、今しか存在しないのだから、その今を楽しむということ
以外ではないでしょう。
 
 矛盾したことを言うようですが、それでもやっぱり時間というのは存在する。
我々は生身の存在であって、肉体は刻々老いてゆく、以前できたことが今はもうできない、
体の故障は不愉快だ。
昨今はアンチエイジングブームで、それら加齢に伴う現象を否定的に
捉える向きがあるようですが、しかしこれはもったいないことのように思います。
なぜなら、老いるという経験は、誰も初めてのことであるはずで、せっかくの未知なる体験を、
否定してないものにしてしまうのは惜しい。

死ぬとか病むとか老いるとか、当たり前のことを否定として捉えるから人は苦しむことに
なるのでしょう。
やはり、当たり前を当たり前として捉え、なおそれを楽しむという構えが、
ひょっとしたら人生の極意なのかもしれません。
 
まあこの人生、何のために生きるのかとは、生きている限り避けられない問いではありましょう。
それは人間にとって最も根源的な問いであって、だからこそこんな問い、人に問うて答えが
得られるものではない。根源的な問いほど、自ら問い自ら答える以外はあり得ないのです。
本当に答えを得たいのであれば、生きている限り一度は必ず自らに問うてみるべきでしょう。
「私は、食べるために生きているのか、生きるために食べているのか」

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09月05日(火)
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