ID:19200
たったひとつの冴えないやりかた
by アル中のひいらぎ
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■チャーリー・Pについて
この雑記でもたびたび取り上げてている『ジョー・アンド・チャーリーのビッグブック・スタディ』。その片方のジョー・マキュー(黒人のほう)は、著書が何冊か日本語訳されて出版されているので、その人物像や来歴も比較的知られています。

しかし、もう一方のチャーリー・P(白人のほう)のことについては、どんな人物だったのか日本ではあまり知られていません。彼について分かる範囲で簡単に雑記にまとめておきます。

チャーリー・Pは1929年8月8日にオクラホマ州のタルサで生まれました。彼の父親は農夫をしていましたが、1929年に始まった大恐慌の影響で仕事を失い、カリフォリニア州へと移住しました。その様子は想像するしかありませんが、おそらくジョン・スタインベックの小説『怒りの葡萄』に書かれた様子そのものだったことでしょう。

(『怒りの葡萄』は、1930年代、オクラホマ州で食い詰めた農民一家が、カリフォルニア州へ移住して活路を開こうとするものの、そちらでも仕事はなく貧民キャンプで様々な苦難にみまわれるという小説で、映画にもなっています)。

チャーリーの一家は結局タルサに戻り、父親は職人の仕事を得ますが、暮らしは大変貧しかった様子です。1946年に彼は高校を卒業して陸軍に入り、ドイツに従軍しました。軍を離れた後は、タルサにある航空大学の教官になりました。

彼が最後に酒を飲んだのは1959年の秋のことだったと思われます(1988年8月のスピーチで彼が10,518日酒をやめていると言っていることから計算)。1965年に妻バーバラと結婚し、農場を始めました。オクラホマ州のハウス・オブ・ホープ・リカバリー・センターの共同創始者でもあります(1977年設立)。

ビッグブック・スタディの中で彼自身が語っていることによると、チャーリーの父親もアルコホーリクでした。オクラホマに戻った後、父親は氷を配達する仕事を得ました。骨の折れる単純労働を週に6日間こなし、土曜日の夕方に密造酒を買って帰ってきた父親は、子供たちの食費を確保しなければならない母親と大げんかをしました。やがて父親の依存症が進行し、家の中で家族に銃を向け、刃物を振り回すようになります。「これからお前たちの母親を殺す」と子供たちに言い残して、母親を連れて出て行ってしまったこともあるそうです。チャーリーははこのような環境で成長しました。

結局父親は、州立の精神病院に入れられます。1940年当時の州立精神病院は「病院」とは名ばかりで治療らしい治療は行われず、患者の処遇は極めてひどいものでした。チャーリーらの兄弟は、父親に面会するために70マイルの道のりをヒッチハイクして行きましたが、父親のいる病棟の様子は、チャーリーをして、もう神も人も信じずに自分の力だけに頼って生きていこう、と決意させるのに十分だったそうです。

チャーリーは自分に自信が持てず、女性に興味があってもまったく声がかけられないシャイな青年になりますが、一杯のウィスキーが彼の感情的問題を解決し、女性をダンスに誘い、家に連れて行って、36年製シボレーの後部座席で生まれて初めて念願のことを成し遂げました。これによって、彼は「アルコールによって物事をコントロールできる」感覚を味わったと言います。

彼によれば、アルコホーリクにはこの種の成功体験(?)があって、だからアルコホーリクは酒をやめていても、アルコールによって感情的な問題を解決しようとする「強迫観念」が(自力では)取り去れないのだ・・・と説明しています。

いまの言葉で言えば、チャーリーはAC(アダルト・チルドレン)の一人でしょう。けれど、チャーリーはそんな自分が他のアルコホーリクと違って特別だとはまったく思っていなかったようで、AAのビッグブックに示された12ステップに忠実に従った結果として回復したと明言しています。

依存症の人の中には、自分だけでなく親も依存症という人が珍しくありません。この人たちはアダルト・チルドレン(・オブ・アルコホーリクス)=AC(oA)と呼ばれます。また近年ACの概念が依存症でない機能不全家族に拡大されることにより、自らをACと自認する人は増えました。


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05月26日(日)
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