ID:19200
たったひとつの冴えないやりかた
by アル中のひいらぎ
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■スポンサーの死
(最初の)スポンサーが亡くなりました。年賀欠礼のハガキが届き、奥様に電話を掛けてみたところ、ガンの闘病を終えて先週亡くなったと知らされました。スポンサーと最後に会ったのは、何年前だったのか思い出せません。それほど会っていませんでした。
僕が彼と出会ったのは、彼のソブラエティがまだ1年半ほどだったと思います。長野県内で断酒会が成立したのが1970年代だそうですが、その頃から彼は何とか酒をやめようと苦闘し、十数年後にようやくAAでまとまった期間、酒をやめ始めた、という頃でした。
気性の激しい人で、キレると男二人がかりでないと止められませんでした。エンコ(小指)がなく、「俺は酒のせいでヤクザもできなくなったんだよ」が口癖でした。刑務所の中の話も良く聞きました。その人が、理屈ばっかり言う僕のスポンサーをよくキレずに務めてくれたものだと思います。いや、キレそうになるのを堪えている様子はよく見て取れました。それまで失敗続きで、誰か一人ぐらい助けなくちゃと思っていた、と後年語っていましたが。
活動量の豊富な人でした。僕がつながったグループは実質彼と奥さんだけのグループでしたが、週に二回、水曜と土曜のミーティングを休まずに開けていました。それから当時隣県には県庁所在地に唯一AAがあるだけでしたが、その会場すら維持するメンバーがいなくなったため、毎週火曜と金曜の会場も開に行っていました。それから、僕の住んでいた街にあった月に1回の会場や、僕の入院した病院のAAメッセージを維持していたのも彼でした。現在、長野県内にはおそらく70人ぐらいのAAメンバーが酒をやめているでしょうが、県南部のAAの礎を作ったのが彼でした。また隣県のAAも、彼なしには維持されなかったでしょう。
さらに、僕が会うたびに「昨夜は東京のミーティングに出た」とか「先週は大阪に行った」という話を聞かされていました。易々と県境を越えてAAの活動していたメンバーが、20世紀にはたくさんいましたが、彼もその一人でした。
AAのグループやメンバーが増えて行くに連れ、彼はローカルなAAの先駆者として精神的なリーダーに祭り上げられていきました。AAにリーダー(指導者)がいないわけではありません。AAのリーダーは号令を掛けるのではなく、模範を示すことによって人々を導いていきます。どこであれリーダーは必要とされるものです。彼は「俺にはふさわしくない」と苦情を申し立てましたが、僕も含め周囲が彼を奉るのをやめることはありませんでした。
尊敬を受けることで彼の中に沸き上がる様々な欲が、彼自身をさらに悩ませ、最後彼はAAから身を引きました。そうして残された僕らは、自分で判断して、自分でその結果の責任を負う、という精神的自立を求められました。やがて彼の存在を知らないメンバーが増えていきました。
飲んでいた頃、酔っぱらいながら彼の家を訪問したことが一度だけあります。その時、僕は「あんたのAAを俺に任せたらメンバーを100万人にしてやるぜ」と彼を挑発したおかげで(!)、ずいぶん後になって彼から「お前は本当に狂っているから気をつけろよ」とからかわれることになりました。でも不思議なのは、まだ自分の酒すら止まっていなかった僕が、なぜ「あんたのAAを俺に任せろ」と言ったのか。彼のAAに対する無闇な愛情に、すでに僕も感化されていたのかもしれません。
彼はステップ1も2も3も、ともかくミーティングに行けとしか言いませんでした。当時のストーリィ形式のステップ5も聞かずに、他のメンバーに任せました。実のところ彼は、AAのプログラムのことなんか、まるで分かっちゃいなかったのだと思います。まるで分かっちゃいなかったけれど、それでもともかくAAを愛し、信じていた。仲間を助け、その中で自分も助けられるのだと信じていました。あの頃は、そういうタイプのAAメンバーがたくさんいて、その人たちによってAAは全国に広がりました。
彼らによってAAという「器」は全国に広がりました。後からやってきた僕らは、そのAAという「器」の中で、ともかく酒をやめることができました。今、僕らの世代に求められていることは、彼らが用意してくれた「器」に「中身」を盛ることなんだと思います。
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12月24日(月)
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