ID:19200
たったひとつの冴えないやりかた
by アル中のひいらぎ
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■翻訳企画:AAの回復率(その9)
ビル・Wは、働きかけるアルコホーリクを選別することは、特に新しいグループを立ち上げるときには、十分な理由があると考えていた。それは「数字を良くする」ためではない。彼は選別がアルコホーリクス・アノニマスの成功に欠かせないことだと考えていた。1939年に、シカゴでAAグループを始めようとしていたEarl Tに宛てた手紙の中で、ビルはこう書いている。29

29. “Pass it On” page 225.

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このやり方だと、浮浪者や精神に障害を持った人たちをたくさん簡単に引き寄せます。確かに、神の目には彼らも他の私たちと同じように大切なのに違いありません。彼らは私たちより壊れ方が激しいだけであって、後に分かるように、グループが十分な大きさと力を蓄えたときに、ある程度の数の彼らを引き受けられるようになり、彼らも見捨てられることはなくなるでしょう。けれど、最初から彼らをあまりたくさん引き受けてしまうと、あなたの家はまるで飲酒同好会か、病院か、託児所のようになってしまうでしょう。
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(上でも引用した)“Survey Midmonthly”誌の1947年6月号の「問題飲酒者」と題された記事では、刑務所や保護観察の初期における事前選択の採用について述べている。

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刑務所および矯正施設内ですでに30以上のAA支部が設立されている。刑務当局と支部メンバーの監督の下で行われる週一回のミーティングには、30人から40人ほどの受刑者たちが参加し、訪問したAAメンバーたちの話を聞いた上で、質問や提案や、自ら話に加わるように促される。新しい参加者は酒をやめたいと心から思っているかどうか注意深く確かめられ事前に選択される(強調追加)。アルコホーリク候補者に対するAAの取り組みにおいては、受刑者はその監督を引き受けるAA「スポンサー」の観察下に置かれる(強調追加)。スポンサーは彼を地元のAAクラブハウスに紹介し、日頃のミーティングに一緒に参加する。これは、新しいメンバーに対して、グループに「属し」、「家族の一員となった」ように感じてもらうためである。
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ビル・S(Bill S.)軍曹は、『On the Military Firing Line in the Alcoholism Treatment Program(アルコホリズム治療プログラムの軍隊における最前線)』と題した彼の本の中で、彼が1950年代初頭にサン・アントニオのラックランド空軍基地で立ち上げた、極めてAAに類似したアルコホリズム治療プログラムにおいて、どのように同様の成功率を達成したかについて述べている。50%は初回から断酒し、その後も断酒を維持し続けた。その他の人たちも、いったんはこのプログラムから離れたものの、最終的にはチャンスを逃したことに気づいて、自らAAミーティングに戻り、酒をやめた。

ビル・S軍曹(彼は1948年にロングアイランドで酒をやめた人物)は、自分が関わる前に対象者の事前選択を行った。強い動機を持っている根拠があるかどうか(これはドクター・ボブが重視した基準である)、さらにビル軍曹は、重大な精神的問題を抱えた人を除外した。後者の基準とは、深刻な精神的問題を抱えた空軍職員は除隊になってしまうため、彼のプログラムに加えることを拒んだのだった。

ナンシー・O(Nancy O)の本、『With a Lot of Help from Our Friends(友人たちの支えがあればこそ)』には、1960年代の海軍でJoe Zuska医師が立ち上げた治療プログラムの成功について述べた章がある。このプログラムはチームによる取り組みであり、その中にはあるAAメンバー(退役した海軍中佐ディック・J)が常にアドバイスを提供していた。チームの中でJoe医師は(アルコホーリクではなかったが)ディック・Jの話を真剣に聞いた。

引退した海軍中佐サブマリン・ビルは、元はZuska医師が立案した海軍での治療プログラム全体に関わった。彼らは候補者をたいへん注意深く事前選択し、プログラムに取り組むことを拒否する者は、治療プログラムだけでなく、海軍からも追い出した。こうしたことで、彼らもたいへん印象的な成功率を示したのである。


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02月03日(火)
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