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たったひとつの冴えないやりかた
by アル中のひいらぎ
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■多くの回復を作り出すことの意味
先日ある新聞社の記者さんから取材を受けたときにも、こ話をし、その上で「例えば清原が将来ジャイアンツの監督にという記事が書けるか」という少々意地の悪い質問をぶつけてみました。その方は率直に「例えそう書いたとしても、どこかから横やりが入って決して記事にはならないだろう」と答えてくれました。報道機関には「ニュースという商品」を売る商売の側面があります。客の望まない商品を売りつけることはできないのですから、その新聞社が悪いわけではありません。日本の社会が変わらなければ、そうは書けないのです。
おそらく「マーシーも清原も犯罪を犯したんだから、拒絶されて当然だ」と言う人もいるに違いありません。お二人とも違法薬物の所持や使用の罪科で有罪判決を受け、一方は服役もしています。それについては、覚醒剤の使用の罪は「被害者のいない犯罪」と呼ばれていることも考慮していただきたい。法律が何かを禁止するのは、誰か(の権利)を守るためです。どの法律が誰を守っているか、考えてみれば分かるはずです。覚醒剤や麻薬の取締法は少なくとも薬物依存症者本人を守ってはくれない。禁止したからって再使用は防げないし、懲罰を与えることはしばしば治療の妨げにしかなりません。
覚醒剤や麻薬の取締法は、依存症にならない大多数の人々の福利を守っているが、依存症者の役には立ってはいないのが現実です(まあ取り締まるための法律ですからね)。人は軽い気持ちでクスリに手を出しますが、依存症になろうと望んでなるわけではないのです。
話を元に戻して、依存症という病気に対する無理解や偏見は、当事者にとってありがたくないことです。羞恥の気持ちが、治療や回復資源に繋がるのを年単位で送らせ、予後を悪くします。社会復帰にも妨げになります。では、そんな世の中を変えていくにはどうしたら良いのでしょうか。
一つのアイデアは、無理解や偏見を取り除くために「啓発活動をする」というものです。実際に啓発活動に取り組んでいる人たちがいて、その熱意と努力には頭の下がる思いです。僕もそうした活動にはできる限りの協力はしようと思います。ですが、僕自身は啓発活動の先頭に立とうという気持ちは薄い。それはなぜか。
アメリカのAAや依存症の歴史を見ると、アメリカも以前は依存症への偏見が強い社会だったことがわかります。それが変化したきっかけは、AAやその他の機関が依存症からの回復者を大量に作り出したことです。もちろん、啓発活動が大きな役割を果たしたことは間違いないでしょうが、啓発活動だけで社会を変えることはできないはずです。なぜなら、人は身近に存在を覚知することにしか関心を寄せないものです。回復した人がたくさん存在しなければ、理解が進みようがありません。
だったら僕は回復ということに焦点を当ててやっていきたい、と思うようになりました。社会を変えることが僕の目的ではなく、回復というものが増えていった結果として社会が変わってくれれば、それはそれで有り難いし、自分もより安全になれる。だから、たくさんの回復が作り出せることが大切ではないか。それが当事者が当事者として活動する指向性だ、というのが最近の考えです。
02月26日(日)
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