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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■038 pseudoscience
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別冊歴史読本 特別増刊14《これ一冊でまるごとわかる》シリーズ2 『「古史古伝」論争』新人物往来社 1993.8.12発行

資料発掘 『天津教古文書の批判』(狩野亨吉著)
かのう・こうきち(1865-1942)哲学・思想家。安藤昌益を発見、紹介。京都帝大文科大学学長。

〔解説〕「天津教古文書の批判」をめぐって (P362-364)
鈴木 正:名古屋経済大学副学長・日本思想史

 大本救や天理教への宗教弾庄につづいて竹内巨麿らが昭和十一年二月十三日に検挙されたのは、いわゆる第二次天津教事件である。ここに再録された狩野亨吉の「天津教古文書の批判」は、この年の『思想』六月号に掲載されたものである。
 まず、論文執筆の背景からのべよう。緒言にみられるように狩野が天津教の存在を知ったのは、某海軍大将の紹介で来訪した二人の信者から宝物の写真を贈られ、茨城県磯原にある「皇祖皇太神宮」への参詣を勧められた昭和三年五月末のことである。これは狩野が「安藤昌益」を発表した直後の時期にあたる。このときすでに狩野は写真を一見して、その原物の欺瞞性を感知している。多くの名士を誘って百万円の寄付金を集め、神奈川県柏見に宝物の奉安殿を建設しようとする動きを探索中であった官憲は、別の詐欺事件で検挙された岸一大の『古事記真釈』のなかに天津教の宝物(古文書をふくむ)の一部が収録されていたことから神代文字の研究家・前田惇を喚問したことに端を発したのが昭和五年の第一次天津教事件である。このとき竹内は十二月八日に所管の松原署にひっぱられ、翌朝釈放されている。当時、このことを特にスキャンダラスに扱った『東京日々新聞』の多量の関係記事が現代霊学研究会編『神代秘史資料集成』(一九八四年)に収められている。
 このあとも彼らの宣伝活動はつづけられ、古文書に記されている日本史の途方もないデタラメな書きかえが企画されていた。そうした宣伝拡大のなかで、この論文は執筆された。つぎにその前後の状況にふれておこう。
 昭和十年八月に『日本医事新報』から天津教古文書の歴史的価値の調査依頼があった。その解答の一部は、神代古文書に関する諸文献の出版と所在を闘う「北海道エイチ生」への答の形で、島田筑波の署名がある「天津教の古文書は所謂インチキもの」が同紙九月二十一日号に掲(の)っている。
 最初に書いたように第二次天津教事件で検挙された竹内ら五名は昭和十一年二月十八日に水戸地方裁判所検事局に送られ、主謀者の竹内は「不敬、文書偽造行使、詐欺罪」で公判にかけられた。のちに東京控訴院第五法廷にもちこまれ、その第四回公判(昭和十七年十二月十四日)では、狩野は橋本進吉東大教授とともに証言に立ち、本論文の要旨六項目について意見をのべ、鑑定意見を『思想』に発表したのは「その蒙を啓くため」だとのべている。その点がとくに重要だと私はおもっている。
 最後に論文の価値についてのべよう。官憲は、この事件を主として不敬罪で訴追しているので宗教弾庄の一環として回顧されることに一面の真理はある。佐治芳彦の『謎の神代文字』(一九七九年)は、これを極端化して狩野論文を弾圧への協力面に力点をおいて否定的に評価しているが、それは官憲と一体化させた独断による読みそこねというほかない。
 狩野は天津教をほかの類似宗教にくらべてあくどさが少ないとしながらも、「古文書を証拠として神代百億万年の歴史を展開し以て皇室の規模を壮厳するに勤める」点では批判を許さないかたくなな態度を妄想と断じ、そこに批判を集中している。それぞれの文書の文体、書体、内容(時間、地理、人物、事件)について厳正に吟味したうえで、近年の偽作と断定している。その論証・実証の過程については、直接、本文を読んでほしい。ヘタな要約で読者の興をそぐようなことはしたくない。

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11月25日(火)
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