ID:104448
暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■崇教真光と考古学 その2(教義2)
[555]崇教真光と考古学 05/10/06 14:11 GoRGEoUS
ハ、世界最古級の土器発見!
 平成10年7月、青森県蟹田町にある縄文草創期の遺跡で発掘された土器片が、実に「1万6500年前」に作られたものであることが、最新の科学分析法で明らかになりました。(資料3)
 これまで縄文時代の始まりとされてきた1万2000年前より4500年も古く、考古学者は「従来の定説を覆す、極めて重要な発見・研究だ」としています。
 この土器の年代は世界的に見ても最も古いもので、「世界最古の土器文化」としての原日本・縄文文化の起源に、いま改めて世界中の関心が集まっています。
 ナイル川やチグリス川流域などに四大文明が出現する一万年以上も前、大陸と陸続きだった日本列島では、すでに土器の製作が始まっていたのです。
 ヨーロッパに初めて土器が登場するのは紀元前五千年頃、西アジアからドナウ川沿いに伝わったと考えられています。このことから見ても、日本の土器が如何にケタ違いに古いものであるかがわかります。
 「日本で発明された土器が、世界中に広がっていった」という説も、あながちデタラメとは言えなくなってきました。

二、縄文前期から米作り!
 「稲作は今から2500年前の弥生時代初頭に始まった」。長らく続いたこの定説が、いま完全に打ち砕かれようとしています。
 平成11年4月、岡山市・朝寝鼻遺跡の約六千年前の地層から、稲の細胞化石(プラント・オパール)が発見されました。これは、実に定説を3500年も遡る縄文時代前期初頭から、稲の栽培が行われていたことを示しています。(資料4)
 稲の本場、中国の長江下流域で本格的に稲作が行われはじめた時期とほぼ同時期に、縄文人もまた稲作を行っていたのです。
 さらに、同じ地層から発見された別のプラント・オパールを調べたところ、東アジア最古の「小麦栽培」の証拠であることが確認されました。中国最古の小麦栽培の痕跡は約五千年前。中国でもまだ小麦栽培が始まっていなかった時代に、縄文人が早くも栽培に取り組んでいたことが明らかになったのです。(資料5)
 イノシシやシカなどの獲物を追って、地域を転々として暮らしたという従来の縄文人のイメージは完全に覆り、翌年の為に種籾を備える優れた計画性や、稲の不作に備えて小麦を植える緻密さを兼ね備えた原日本人の姿が明らかになったのです。

ホ、海を渡った縄文土器
 南太平洋の島国、バヌアツ共和国から出土した縄文を持つ土器片を調べていたハワイ・ビショップ博物館の篠遠喜彦博士(太平洋考古学)ら日米仏の考古学者ら6人は、これが約五千年前に日本で作られた縄文土器であると断定しました。
(資料6)
 その根拠は、土器の文様や成分を厳密に比較調査した結果、それらのデーターが青森県で出土する土器と完全に一致したためです。
 五千年も昔、船に土器を積み、六千キロもの海路を運んだ縄文人たち……。私たちの祖先は、五千年の昔より世界各地へと雄飛していたのです。
 さらに現在、南米大陸で発掘された土器と、日本の縄文土器の整合性に関する研究も進んでおり、縄文人が太平洋を渡り、南米大陸にまで到達していたことが証明される日も近いものと思われます。
 すでに、遺伝子レベルの研究では、中南米に高度なピラミッド文明を築き上げてきた原住民と、日本の縄文人のDNAがピッタリと一致することが確認されています。
 これは、両者がかつて同じ村で生活していた「全く同一の民族」であったことを、科学的に証明するものなのです
 今後の研究が、大いに期待されるところです。


[556]崇教真光と考古学 05/10/06 14:11 9Hqd6qPk93
ヘ、日来神堂を築いた縄文人
 平成5年10月、古くから“縄文のピラミッド“との説があった秋田県鹿角市十和田大場の黒又山(標高280メートル)を調査していた環太平洋学会の調査団は、地中レーダー探査の結果から、「黒又山は自然の山を削って階段ピラミッド状に仕上げた縄文遺跡である」と結論付けました。(資料7)
 周辺は縄文時代の遺跡が多く、黒又山の南西約2キロには、約四千年前のものとされる直径約50メートルの大湯環状列石(国の特別史跡)がありますが、どちらも古代人の太陽信仰と深い関係があると考えられています。

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09月28日(水)
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