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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■キリストの墓の真実(11)-(15)
(別冊歴史読本54号) 新人物往来社 2000.10

巻頭カラー写真(P7)
「キリストの墓」……歴史的には中世豪族の墳墓と推定されている。

P291-304
対談 「古史古伝」可能性とその限界――古史古伝の放つ妖しい魅力
  田中勝也(歴史研究家)
  原田 実(文明史家)
(抜粋)
■「古史古伝のチャンピオン『竹内文献』
原田 「古史古伝」のチャンピオンはやはり『竹内文献』でしょう。いわゆるモーゼやキリストの墓が日本にあった! というたぐいの聖人伝説が生まれる上で大きな役割を果たしています。『竹内文献』は、宇宙開闢まで遡る長大な皇統譜をもっており、しかもそれは、世界中の人類が全て日本の皇室から別れたことになっているという広大なものです。年代的にも地域的にも壮大な物なのですね。その皇統譜を裏付ける形で、もしくはその皇統譜の原型となる形で、聖者の伝説というのを作っていったのが竹内文献なのです。
 竹内文献では、こうしたトンデモ系の「聖人の話」が生まれた経緯が特定できるわけです。例えば、戸来村のキリストの墓というのは、昭和十年に突然現れます。もともと地元にはそのような話はありませんでした。竹内巨麿が戸来村に、古代史研究家で日本画家の鳥谷幡山と村に現れ、「キリストの遺言が竹内文献の中から出てきて、実は戸来村に住んでいた」とい出すわけです。そして、村の竹薮の中にある塚を見て、「これこそキリストの墓である」といいだしたのです。
 また、石川県にモーゼの墓があります。これもやはり竹内文献絡みで、酒井将軍というキリスト教神学者が竹内巨麿のところにいき、「ここにモーゼの十戒を刻んだ石はないか」と尋ねるんですね。「では、調べてみましょう」ということになって、しばらくして「ありました。実はモーゼは石川県の能登半島で死んでいました」という話になるのです。また、竹内家から出てきた「モーゼの十戒」は豊国文字で書かれています。『上記」とモーゼというのも関係がある、ということなのでしょうね。
田中 戸来村というのはヘブライと関係があると、ゴロ合わせでこじつけられた。
原田 現在は新郷村になっている戸来ですが、あの一帯には一戸、三戸、八戸など「戸(へ)」という字のつく地名が東北には多いわけです。さらに、竹内文献とは別系統で「ナニャドヤラ」という村の民謡がヘブライ語だ、とアメリカ帰りの神学博士守田英二氏が言い出します。
 このように『竹内文献』に関しては、いつ何がきっかけでそう言う話がうまれたかということを特定できる。ある意味でこうした古史古伝の成立過程が検証できるわけです。大正時代に”発見”されたころには、南北朝の伝承を中心にしていた『竹内文献』が、どんどん大東亜共栄圏や八紘一宇の思想にのってトンデモない想像力を羽ばたかせ、世間の注目を集めるようになっていきます。戦時中には不敬罪で弾圧(大審院では無罪)されるわけですが、こうした一連の事件がおきているのが昭和に入ってからなので、記録も残っていますし。


494 キリストの墓の真実(15)――幻想の津軽王国(a) 2004/12/23 14:58

幻想の津軽王国−『東日流外三郡誌』の迷宮
原田 実 批評社1995.5

P208-213
■キリスト伝説の怪
 実は和田家史料群と「竹内文献」には奇妙な接点がある。それは和田家史料群「奥州風土記」の「戸来上下大石由来」(寛政六年七月二日、秋田孝季の記という)にある「戸来邑にては、キリストの墓など奇相な逮跡ぞ存在す」の一節である。先にもやや触れたが、戸来村のキリストの墓は竹内巨麿が昭和十年にこの地を訪れたさいにはじめて「発見」されたものであり、寛政年間の人がそれについて書きうるはずはなかった。
 その点を斎藤隆一氏より指摘された古田氏は次のような反論を発表している。
〈史料根拠とされた、史料(浜洋「日本の20不思議』大陸書房)は、果して「証拠として疑いなし」というような「信憑性」があるのか。少なくとも、学術論文で「証拠」にはあげにくいが、大丈夫か。
○戸来村には、古くからの民俗中に「十」が使われている。また仙台で受難したキリシタンが周辺に散居・亡命したとき、これをキリスト教の「十」に結びつけた可能性も無視できぬ。この可能性を無視してよいのか。

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11月08日(月)
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