ID:104448
暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■キリストの墓の真実(16)-(18)
495 キリストの墓の真実(16)――幻想の津軽王国(b) 2004/12/23 14:59

 巨麿の訪問前にキリスト伝説があったとすれば、先に現地を訪れたことのある鳥谷が巨麿に聞き返す必要もないし、巨麿が旅行中、それについて沈黙することもあるまい。以上のいきさつから推定できるのは次のような経緯である。
(A)巨麿は日本の某所に「キリストの墓」があると考えており、鳥谷など一部の信奉者にそのことを密かに告げていた。
(B)戸来村に至り、巨麿はそこで見つけた塚こそ「キリストの墓」にふさわしいと思った。しかし、その時点では、そこが「キリストの墓」だと断言するのを避けた。
(C)帰宅後、巨麿は戸来村に「キリストの墓」があるという証拠文書を発見(あるいは造作)した。そこで鳥谷に対し、「キリストの墓」発見について公表することを許した。
 以上の経緯であったとすれば、昭和十年八月上旬まで、「キリストの墓」は巨麿および『竹内文献」信奉者の頭の中だけにあったのであり、戸来村にあったのはキリストとは関係ない塚だったのである。古田氏があくまで昭和十年より前(寛政六年)の戸来村に「キリストの墓」があった可能性を主張されるのであれば、鳥谷の記録を凌ぐ史料価値を有する文献を探し出す責任が生じるであろう。
P211
■かくして歴史はくりかえす
『竹内文献』といえば、狩野亨吉による名論文「天津教古文書の批判(18)」に触れないわけにはいかない。その論文を執筆した時、狩野の手元にあった『竹内文献』サンプルは信奉者から持ち込まれた写真五点のみであった。しかし彼は「片鱗を似て全体を見ることは出来ないとの反駁あらば認めることを躊躇しない。しかしながら同時に又生命を取るには一箇の致命傷にて足ることを心得なければならぬ」として、あえてその鑑定結果を発表したのである。さて、その結果はいかなるものであったか。
「第一に文章は揃いも揃つて下手であり、肝心な語法語調も億万年を通して不変なるのみならず、誤謬は頑強に保持せられて共通永存してゐる。第二に筆跡は孰(いず)れも見事ならず、著しく近代風を帯びたる上に類似の点多く、一々別人の手に成るものと取れない。第三に所説は正史と矛盾するばかりか、明治以後漸く知れ亙つた如きことを平然として述べてゐる。依て追次此等の文書に就き、其文体、其書体及び其内容の検討を遂げ、悉く最近の偽造であることを暴露せしめたのである。」
私も以前、この論文について納得できない点を指摘したことはある(19)。しかし、今、「その結論を読み直す時、それがそのまま和田家史料群の鑑定結果だと称しても通用する内容であることに驚かざるをえない。和田家史料群事件は、まさに「竹内文献』偽作事件の再現だったのである。まさに「歴史はくりかえす」のである。ただし、それが悲劇としてか、喜劇としてかは後世の審判に委ねる他はあるまい(20)。
 なお、最後に一言しておかなければならないことがある。本論において私は古田氏に対して批判的な言説を述べてきた。しかし、重要なのは、古田氏が本来は優れた研究者であり、親鸞研究や、邪馬台国問題、倭の五王問題、好太王碑文問題、西王母国問題などに関する業績は、たとえその結論について万人の賛同するところとならなくとも、真に画期的なものであったということである。今や古田氏は和田家史料群事件にかかわることで、みずからの過去の業績をも無に帰しつつあるといえよう。望むらくは古田氏もまた反省悔悟してその妄を棄て、すみやかに学問の道の正しきに復帰せんことを。


496 キリストの墓の真実(17)――幻想の津軽王国(c) 2004/12/23 15:01

[註]
(1)昭和薬科大学奉職前の拙著『幻想の超古代史」(批評社、平成元年)では、私は『東日流外三郡誌」について偽書であるとしながら、その伝承としての価値をある程度は認めるという立場をとっていた。平成二年三月、私は古田氏に『東日流外三郡誌』が偽書と思われる所以を説明したが、そのすべてに反論され、結局は古田氏の研究に協力することを約束したのである。なお、古田氏がそのさい、私に口頭で語った偽作説への反論の一塊は『真実の東北王朝」(駸々堂、平成二年)に示されている。

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11月07日(日)
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