ID:104448
暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■キリストの墓の真実(6)-(10)
485 キリストの墓の真実(6)―― ムー大陸の世界(a) 2004/12/23 14:42
『真光』誌 78年1月号P48-53 (岡田K珠派発行)
『ムー大陸の世界』白上○徳
■キリスト教の源流
本誌連載第六回(169号)において、キリスト教の十字架のマークが、実は、ムー大陸における〈宇宙力のシンボル〉から出たものであることを記しました。
それと同時に、キリスト教の”教え”そのものも、ムーの宗教から発している――とチャーチワードは述べています。
昔から、宗教としてのキリスト教の研究とともに、イエスキリスト自身についての研究が多くの学者達によって行なわれてきました。
しかし、われわれが現在知り得るのは、処刑される数年前からのキリストの姿であって、それ以前の、少年時代、青年時代のことについてはほとんど知られていません。
つまり、その前半生は、まったくベールの、中にとざされている――といっても過言ではありません。
この時代、一体、彼はどこで、何をしていたのでしょうか。
このことについて、チャーチワードは、「カシュミールのレー市にあるへ−ミス寺院には、バーリ語で記された、キリストに関する記録がある。
それによると、キリストはユダヤを出て、エジプトにわたり、そこに二年ほど滞在して、古代エジプトの宗教や、哲学思想を学んだ。彼が特に影響を受けたのは、エジプトにおける〈オシリス教〉であるが、この教えの元祖である、オシリスという人は、二万年ほどまえに、大西洋上に在ったアトランティス大陸に生まれた人であった。
彼は、青年時代、太平洋上に在ったムー大陸に行き、そこで、本務的ムーの宗教を学び、〈導士〉としての資格を得て、アトランティスに帰国し、神官の長として、子弟に教育を
授けた優れた人物であった。
キリストは、このオシリスによって述べられた教え、すなわちアトランティス大陸から、エジプトに伝えられたものを学んだのであった。
エジプトで学んだ後、キリストはさらに、インドの諸都市を巡歴し、仏教およぴ仏教以前の印度の宗教を学んだ。
ついで、チベットに入って、留ること十二年、その間に、ムー大陸から、この地に伝えられていた、宗教、哲学、超科学などを学び、彼自身の宗教の本体を完成し、大きな自信と使命観をもって帰国し、キリスト教の宣布に全生命を捧げた。」
このように、チャーチワードは述べています。
486 キリストの墓の真実(7)―― ムー大陸の世界(b) 2004/12/23 14:45
一説によりますと、チベットに学んでいたキリストは、未だ、自ら確信のもてる心境に到達することができず、これまで披が巡歴してきた土地の者よりも、一層純粋で高度の教えが、東方の地にあることを知って、ついに長駆して、日本に渡来したというものです。
日本に来たキリストは、現在の青森県三戸郡新郷村戸来に住み、日本古来の宗教の中に、ついに、彼が長い間求めていた〈真理(神理)〉を発見し、この確信をもってしばしば母国との間を往来し、自己の宗教思想を人々に伝えた後、前記戸来の地に没したとしています。
私は五年ほどまえ、この地を訪ねましたが、そこには白い十字架が、向かいあって立っていました。
写真(図2)の向かって右の十字架がキリスト、左の十字架が兄キリストの身代りとなって十字架上で死んだ弟イスキリの墓である―とされています。
なお、十字架の近くに立てられている説明板には、次のごとく記されていました。
「イエスキリストは二十一才のとき、日本に渡り、十二年の間、神学について修業を重ね、三十四才のときユダヤに帰って神の教えについて伝道を行ないましたが、その当時の
ユタヤ人達はキリストの教えを容れず、かえってキリストを捕えて十字架に磔刑に処さんと致しました。
しかし、偶々、イエスの弟イスキリが兄の身代りとなって、十字架上の露と果てたので
あります。
他方、十字架の磔刑からまぬがれたキリストは艱難辛苦の旅をつづけて、再び日本の土を踏み、この戸来村に住居を定めて百六才の長寿を以て、この地に没しました。
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11月09日(火)
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