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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■036 pseudoscience
 いわゆる『竹内文書』は、竹内巨磨が教義形成の過程のなかでキーワードとして神代文字を持ち出し、記紀以前のこの国の姿を措いた妄想の産とする見方が定着したように見えるが、一方に『宮下文書』『九鬼文書』『上記』なども神代文字による作品とされていることや天津教裁判に出廷した東大教授によって『竹内文書』は後世の偽作と断定されたものの「漢字が入る以前に日本固有の文字があったかどうかは不明」と証言したせいか、神代文字を信奉する人は絶えない。

 またこれらの伝承を基づける史料として、上古代天皇の神骨像、八搾の鏡、「刀にすれば以て玉を切るべし」といわれる謎の鉄鉱石ヒヒロイガネで鋳造された大剣などがあったとされたが、証拠品として裁判所に没収された、東京空襲のさいにそのほとんどを消失している。

 天津数は戦後息を吹き返すが、昭和二十五年、今度は当時の施政者GHQによって邪教として迫害された。

 進駐軍は軍国主義の温床とみなした国家神道を禁絶したが、その他の教団には比較的穏やかに対応し、昭和二十年代は現在大教団となっている宗教団体が百花繚乱、その基礎を築いた時期でもあった。

 霊友会、生長の家、ひとのみち教団改めPL教団、創価学会、立正佼正会、踊る宗教と呼ばれた天照皇太神宮教・・・・。そのなかで、進駐軍によって迫害を受けた教団が、この天津教と、女教祖璽光尊、名横綱双葉山の組合せで敗戦直後のマスコミを賑わせた「璽宇」である。

 璽宇は美しい女教祖が「そなた・・・・」と呼びかけ予言予知をすることで人気を得た。昭和天皇が「人間宣言」をした二十一年に、本名大沢ナカの璽光尊が神がかり状態となって、「天皇が神様の地位を放棄したのなら、今度は私が神聖天皇である」と”天皇宣言”をしたのである。

 この突飛な発言の背景には、社会の価値観が根こそぎひっくり返ったこと、「不敬罪」が無くなったことなどが考えられるが、璽宇はやがて信者三十万、当時全国一の教団といわれるまでに拡大した。引退直後の横綱双葉山、碁の名人呉清源などのスーパースターが璽光尊のもとに参集、大衆の好奇心を引き付けたこともその要因である。

 昭和二十二年一月二十一日。「皇位の正統後継者」を広言するようになった璽光尊以下双葉山らの幹部が、GHQ司令部の命を受けた警察当局によって一斉に検挙された。

 このとき大男の双葉山が「ジコーソーン」と叫びながら、群がる警官隊を相手に太鼓のバチを振り回して大立ち回り。逮捕された双葉山はその後信仰を捨てたが、妻が璽光尊直属の幹部であった呉清瀬はしばらく教団を離れなかった。また戦後の混乱期の中とはいえ、「天変地異が起こり、天皇が三種の神器を奉じて参内。璽光尊に大政を奉還する」などとメチヤクチャなことをいう女神様を、文化人たちが持て囃した。下中弥三郎、金子光晴、川端康成、亀井勝一郎などの知識人が、璽光尊に面会している。

双葉山が信仰を捨てた後、璽字の女教祖璽光尊は、昭和五十九年七月独身のまま八十一歳で死去している。

(中略)

 「オウム神仙の会」として発足した当時のオウム真理教が『竹内文書』の影響を受け、麻原彰晃こと松本智津夫が大本の王仁三郎を意識していたと指摘する偽書研究家は多い。
 もっとも顕著な例として挙げられるのが、オウムの瞑想用の道具に『竹内文書』に登場するヒヒロイカネと証する石を利用していたということである。

(中略)

 これは史家・原田実氏が、いまは廃刊となった『宝島30』(一九九五年十一月号)に掲載した『オウムを準備した男』という記事の抜粋であるが、原田氏に限らず当時の『ムーに関わっていたライター、編集者のなかに、「山本白鳥→武田崇元→麻原彰晃」の相関関係を指摘する人は多い。

 それは「幻の超古代金属ヒヒイロカネは実在した」という麻原が書いたとされる記事にまつわる話がほとんどなのだが、その記事を要約すると次のようになる。


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11月27日(木)
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