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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■019 Mu1
しかしながら、伴信友(ばん のぶとも)(1775-1846)は、これらの文字の信憑性について異議をとなえた。そして20世紀になってようやく、ほとんどの言語学者が神代文字の信憑性を信じることをやめた。だが、第二次世界大戦に先立つ極めて国粋主義的な時代には、神代文字は再び人気を取り戻し、それは特に陸軍士官学校などの愛国的かつ軍国主義的な集団の中で顕著だった。岡田光玉氏はそこで教育を受けていたのである。その文字の真の重要性などは観念上のものにすぎない。現代の言語学者は次のように確信している。神代文字は、隣の中国の言語と文字に対する日本人の劣等感を払拭するため、またナショナリストが古代日本を理想化するため、そういう理由で作られたものにすぎない、と。同じようにして、神代文字は真光の教義の中に流れる排他主義を表す材料となっていった。
デイビス氏が言うには、岡田氏は文献からたくさんの情報を集めたが、それらのほとんどは批判的な調査に耐えられない。彼は自分の研究を真光の研修テキスト、歌集(祈言集)、御聖言にまとめた後、それらが神に起源をもつとして、日本の神の印を押したのである。(注:つまり、神から授かったものだとした。) より広い一般社会に対して私が心配していることは、アンドリス・テベシス氏が岡田氏とその娘の教えこそが神の真理でありそれを普及させるのだと宣言した、まさにそのことだけである。オーストラリア州政府によってそれが認められたと彼が主張することはそれほど心配することではなく、それはまた別の問題である。
オーストラリアで一つの宗教を立教しようとする人は誰でも、オーストラリア税務局による税に関する規則(TR92/17)を遵守しなければならない。
5.もし宗教的目的で団体が作られているのならば、それは宗教団体であり、周囲からもそのように認識されなければならない。
(a) その目的と活動は、その団体が設立された目的であるところのその宗教上の目的を推進するための特徴を、反映していなければならない。かつ、
(b) その団体の信者の信念と実践が、その宗教を構成していなければならない。
6.信念と実践が宗教を構成するかどうかを判断するための最も重要な二つの基準は、
(a) 超自然的な存在、物、原理を信じていること、かつ、(b) その信念を実行するにあたっての行為の規範を受け入れていること、しかし、その規範は通常の法律を犯すものでないこと。
真光はこの基準に当てはまる。オーストラリアの納税者はうっかり真光に財政的な援助をしてしまい、真光はそれによってオーストラリアの首都キャンベラに数百万ドルもの費用を費やした本部を建設する。そして将来には、数百万ドルをかけた学校や収容施設を建設するのにも協力してしまうだろう。そのお金は信者から集められても、信者にとっては寄付は税金の控除をうける。
私はここで一つの奇妙な矛盾に気が付いた。イギリスの歴史家デビッド・アービング氏はオーストラリアに入ることを禁止されている。彼のビザの発行は、彼のたちの悪い性質のために拒否されている。彼はユダヤ人に関する第二次世界大戦中の出来事に対して、過激な意見をもっている。
真光は未だに、学校を建設して世界の真の歴史を教えるという望みを持っている。もし彼らが救い主の教えに対して今もなお忠実であるならば、ユダヤ人の国の起源は日本であり、モーゼは日本の皇子であり、ヘブライ語は日本の天皇からの贈り物であり、ユダヤ人が歴史を通して迫害されるのは彼らのカルマのせいだ、ということになる。私はこれらの考え方はデビッド・アービング氏の考え方よりずっと危険だと思う。もう一つの心配なことは、アンドリス・テベシス氏の主張である:「何人かの真光信者の教育者は、オーストラリアやニュージーランドにあるたくさんの初等および高等教育の学校のカリキュラムの中に、高いレベルの価値を導入することができました。私が思うに、両国政府の教育省は、それがどのような高いレベルの価値なのかを尋ねるべきです。」
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05月29日(木)
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