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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■キリストの墓の真実(11)-(15)
 山根がキリストの遺言書と出会った昭和11年、巨麿は不敬罪などに問われ検挙され、また天津教は徹底的な弾庄を受けることになる。さらに山根の『光りは東方より』のなかには、不思議なことになぜか昭和十年の巨麿らの戸来村探査についての記述がまったくない。これだけを読む者は、キリストの墓はむしろ山根によって発見されたかのような印象さえ抱くだろう。はたしてそれは偶然だったのか、それとも山根の計算のうちだったのか。
 天津教弾圧と山根本の登場 ――これによって『竹内文献』とキリストの墓が分離してゆくことになる。いや、むしろキリストの墓が独り歩きしてゆく――と言ったほうがいいのかもしれない。
 山根は『光りは東方より』のなかで、イエス、モーゼ、ヨセフ、ブッダらが日本に渡来していたと主張する。今日の戸来村=キリストの墓伝説のイメージは、巨麿でも鳥谷でもなく、山根と重なっていると言えよう。同著が話題になったおかげでキリストの墓伝説は広く海外にまで知られることとなった。
 鳥谷は後年(昭和38年)、山根に研究成果を窃されたと嘆き、山根の行動を「災いの種」であるとしている。

◇伝説の迷路の奥で
 山根の登場によって、日本のキリスト伝説=キリストの墓伝説は完成した。それが 『竹内文献』にはじまる伝説形成のおそらく深層であった。しかし、これで伝説にまつわるすべてを語りえたわけではもちろんない。
 たとえば昭和8年に、『竹内文献』を研究していた矢野祐太郎が天津教の外郭団体<神宝奉賛会>を組織し、そこには中里義美がいた。中里こそは、一条らエソテリック・エスタブリッシユメントたちと古史古伝/神代史運動を結びつけたキィパースンだった。矢野はやがて天津教を去り、大本とも因縁の深い神政龍神会を興す。この神政龍神全の神話字宙は宮中にまで浸透し、信者であった女官・島津ハルは精神病院に隔離され、そのため矢野は逮捕されるにいたる。
 そして大本教は天津教に対して、モーゼの十石を当時の金額3万円で譲るよう交渉した――というエピソードがある。大本の出口王仁三郎にまつわる膨大な記録のなかには、彼が「竹内文献」について「竹内古文書にはわしが神界から聞いているのとまた少し違っているところもあるが、また信ずべきところもあり事実もある」と語っていたことがあるのを、武田崇元が紹介している。
『竹内文献』は出口王仁三郎をしてそのように言わしめた古史古伝であったが、大本教ばかりか大本水系の一部を成す世界救世教や、あるいは世界救世教から分かれていった崇教真光およぴ世界真光文明教団といった教団に『竹内文献』は影響を与えていることが、すでに多くの識者によって指摘されている。近代から現代へといたる新宗教熱はある部分で、『竹内文献』水脈の流れでもあるのは間違いない。


492 キリストの墓の真実(13)――別冊歴史読本1996(f) 2004/12/23 14:53

 巨麿が天津教を興して活動を展開した時代は、まさに数多の古史古伝が浮上し、それまで隠されていた神々が復活し、狂熱的なまでの神代史運動が繰り広げされた時代でもあった。「竹内文献」はそうした時代の産物――産物という言葉が適当でなければ、そうした時代の投影物なのである。キリストの墓をめぐる伝説も、日猶同粗論やユダヤ禍論の横溢がなければ輩出されなかったろう。
 竹内巨麿は『竹内文献』の正統性を、竹内一族に伝えられてきたものとして守ろうとした。しかし……あえて言うなら『竹内文献」は王仁三郎の『霊界物語』と同様に、巨麿という異能者によるアカシック・レコードだったのではあるまいか。
 そして……『竹内文献』を中心とするモーゼの十誡石やキリストの墓は、巨麿が酒井勝軍や鳥谷幡山と出会うことで生まれた幻だったのではあるまいか。〔文中敬称略〕

参考文献
『神代秘史資料集成』大内義郷(八幡書店1984)
『神秘之日本』酒井勝軍(八幡書店1982)
『光りは東方より』山根菊子(八幡書店1985)

※この文章は、文献 [1]P48-57にも掲載されている


493 キリストの墓の真実(14)――別冊歴史読本2000 2004/12/23 14:54

文献[3]危険な歴史書「古史古伝」“偽書”と“超古代史”の妖しい魔力に迫る!

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