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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■051 publicationsinMahikari
(P29) 治療にあたって、プラシーボー効果を上手に利用することは、立派な医師の資格の一つですが、この「人間らしさ」の故に生じる効果は、薬のテストにあたっては、邪魔な存在であり、テストの段階では、一応は、とりはらうべき枝葉です。これらの事柄を認識し、よりよい薬の発展を願うという前向きの立場をとるならば、それなりの実験のデザインの約束にしたがう必要があります。

 人間における臨床実験では、特定の基準の薬ないしプラシーボーと、目的の「薬の卵」とを、素性のはっきりした患者に、特別な依怙ひいきなしに割りつけ、実験条件に特別な偏りがまぎれ込まないように工夫し、さらに、医師も患者も、どちらの薬を使っているかわからない状態、つまり医師も患者も薬の種類については盲目の、二重盲検法と呼ばれる手法によって、それぞれの薬の価値を吟味してくらべなければ、客観性のある結果は得にくいのです。

 このような比較実験によって、薬の評価に客観性がでてきます。一口にいえば、二重盲検法にしたがって、基準薬ないしプラシーボーと目的の薬とを、特定の患者群に無作為に割りつけて、同時にテストをするという基本にしたがうことが、薬の正しい評価には不可欠です。

 従来の日本の例では、雑多な患者に、適当に目的の薬だけを使い、たっぷりと主観的な、独断的な判断を加え、その薬を使って病気がなおった、したがって、その薬は効いたという絶対尺度の評価方法が多かったのです。一つには、このような種類の、科学の本質をつくような方法についての医学教育が行われず、薬の評価にあたっては、メーカーからの謝礼が馬鹿にならない財源になり、よろしくお願いしますという依頼に対してナニワブシ的な報告を書くという習慣があったために、科学的な薬の評価が育ちにくかったのでしょう。

 また、実際にテストにたずさわる若い医師にしてみれば、偉い先生が将来の職場に関しても生殺与奪の権を握っており、先生が「赤く見える」というものを、あえて「白です」といいはって、破門の憂きめをみるよりは、「桃色に見える」ぐらいでつじつまをあわせていた方が無難であるという風潮があったこともいなめません。

 きちんとした、人間における薬の評価は、一九四〇年代にイギリスではじめられ、アメリカにも伝えられ、ようやく日本にも、必要性が認められるようになってきたのです。しかし、この方面の仕事を主体にする専門家の養成とか研究室の設立などは、まだまだ時間を要することでしょう。国民の健康をまもる医療関係者にとっても、医療の恩恵をうけるはずの国民にとっても、無関心ではいられない問題です。

 厳格な薬の評価を行おうとするほど、当面の倫理上の問題が大きな制約になることは確かですが、これを理由に、いい加減な評価を行ない、国民にいい加減な恩恵を与えていることの方がより倫理的なのでしょうか。

(解説) このように二重盲検法の必要性は同書に明記されているのである。

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 1910年に鈴木梅太郎博士(東京帝国大学農学部農芸化学科教授)がオリザニン(ビタミンB1)を発見したが、その時のエピソードが、「アリナミン」(高橋晄正著、三一書房1971年)に書かれてあるので、以下に引用する。

(41-42頁)
 (ビタミンB1について)これが脚気の本態物質であり、治療の上で有効性をもつというビタミン説は、簡単に医学の世界に受け入られたわけではなかった。

 鈴木氏は三共株式会社に頼んでオリザニンを製剤化してもらったが、医学界ではほとんど顧みる人がなかったという。そこで鈴木氏は東京市の養育院で一年のあいだ二〇人の小児で栄養剤としてオリザニンを与えた者と与えない者との発育状態の比較をおこなって、与えたほうの発育が良好であるという成績を得ているが、医師でなかったために、脚気についての効果を試験することはできなかった。鈴木氏のような農芸化学者がかえってこのような早い時点において二群の比較をする対照試験の設計をしていることは注目すべきであろう。それは原理的に考えれば誰でも考えていたらざるを得ない生物科学の当然の帰結であったからであろう。


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12月20日(土)
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