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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■027 mcinmahikari
「睡眠中もトイレにはいるときも運動しているときでも、どうしても不可能な場合を除いては常に御み霊を首にかけるようにしましょう。」
[Mahikari Primary Kenshu Reference Textbook, pg 70, 71]
e. Fear of disapproval 
  非難に対する恐怖

もう一つの大きな恐怖があります。道場の幹部は助けの手を差しのべてくれるはずの存在ですが、時には虐待的で批判的です。私の場合,幹部が助けの手を差し伸べてくれないという場面に私は遭遇したことがあります。彼らは次のように言います。『もし教えに対して疑問をもつならば、あなたは明らかに神の教えを正しくつかんでいない。』 他の信者もまた、真光の道場の中では監視役として振る舞い、大きな影響力を及ぼします。誰かが神に対して御無礼をしたり、幹部や教えに対して批判的な意見を述べたりした場合にそれがおこります。もし誰かが神に対してご無礼をしてしまった場合,それは深い罪や穢れを持っている証拠であり、もっと多額の寄付をしたり神に仕えたりすることでお詫びをすることを勧められるのです。

5. Extremes of emotional highs and lows. 
  感情の高低の激しさがある。

真光の信者には、霊査のときに感情の激しい変化がよく起こります。それは、憑依霊が信者の身体を乗っ取っているとされ、信者の様々な深い感情にはけ口を与え、叫んだり震えたり,怒ったり恐れたり、復讐心や絶望を表したりします。この霊査は時には30分ぐらい続き、信者をひどい苦痛にさらします。一般的にはそれほど頻繁におこることではありませんが。

毎月のみ祭りで配られる教えは、時として非常に厳しくて恐ろしいものです。一般的には信者は自分の生活全てを「霊的な目」で見るようにとされ、全てを真光の世界観を通じて解釈するようにと教えられます。こうして、大きな恐怖を用いることで信者自身の生活を非常に歪んだものにしてしまいます。

「私は、はかりしれない深い精神的苦痛を感じました。そして、これはおそらく神が私に行動に移すようにと望んでおられるためではないかと考えました。」
["Salvation from practising teachings" by LH, MAAJ Vol 17, No 1, January 1999, pg 13]

み祭りの時や、研修(初級)の最後の御み霊拝受式のとき、霊界お浄め、周年大祭、神向き会、その他信者が集まって何かをするとき、みんなで一斉に祈言を奏上したり、霊的な体験談を聞いたりすると、精神が高揚します。

多くの信者は、光を与えたり受けたりしているときにも、「霊的な高揚」の感覚を経験します。これらの経験はしばしば、疑念や不安をもちつつも教団への関与をしつづけてしまう原因になるのです。

6. Ritual and often public confession of "sins".
  儀式においてや、しばしば公の場で「罪」を告白させる。

み祭りにおいて人々が集まっている前で、信者によって体験談が読み上げられます。その体験談というものは、困難なことや感情的なことに関しての話になりがちなので、しばしば非常に感情的な状況に陥ることがあります。また、典型的なものとしては、信者は自分の内なる「間違った」考えや態度を告白し、状況が変化したことによって真光の教える真理にめざめることができた、ということをよく話します。体験談を話すときの信者は一般的にいって非常に神経質になります。なぜなら体験談を話す信者には、そのとき神様が注目していると教えられ,かつ公衆の面前で話をしなければならないからです。これは多くの人にとって非常に恐ろしいことです。なぜなら、自分がよく知らない部屋一杯のたくさんの人々に対して、自分の魂(心の奥底)をさらさなければならないからです。


7. Phobia indoctrination: programming of irrational fears of ever leaving the group or even questioning the leader's authority. The person under mind control cannot visualize a positive, fulfilled future without being in the group. 

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07月27日(日)
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