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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■062 publicationsinJapan
「真光」の立教の地は東京・神田の須田町である。
神田・須田町は「神の巣立つ所」であるとして、岡田光玉はここを立教の地に選んだ。彼が最初に、布教の為に開いた道場は神田須田町二丁目七番地にあった「多楽福(たらふく)」という中華そば屋の二階だったという。
「多楽福」という屋号が、時代を物語っている。恐らくは、食糧不足のひどかった戦後の名残りをとどめた屋号であろう。
中華そば屋の二階が最初の道場となったことについて、初期の頃からの信徒である大森ひでは、「何でも、その中華そば屋の入っていた建物の家主さんが救い主様に病気を治してもらったんだそうですよ」と語っている。
かつて、この建物のあった所は東北新幹線を東京に乗り入れる橋桁を立てるために立ち退きになり、現在工事が行われているが、当時の建物は神田須田町から岩本町にいたる靖国通りの、国電の山手線・京浜東北線のガードをくぐったすぐ脇に建っていた。
道場のある二階には中華そば屋の店の中を通って上がらなければならなかった。そばをすすっている客のあいだを、いささか肩身の狭い思いをしながら階段を登っていくと、三十人は入れるくらいの、ガランとした畳敷きの都塵があった。
その頃、教祖様はまだ建設会社に勤めていて、会社が終わると、カッターシャツにだぷだぶのズボンという恰好で、夕方から「多楽福」の二階にやってきては「手かざし」の技を披露したり、「真光」の論理を講義して、集まった人びとに聞かせていた。
多田建設の運転手だった佐々木朝則は岡田光玉に誘われて、何度かこの「道場」を訪れたが、その時、こんな光景を目撃したことがある。
二十人を超える人びとが座って、光玉の手かざしを受けていた。その時、一人の老人が小水を垂れ流した。ただでさえ、中華料理のニンニクやニラの臭いのたちこめている部屋に、小水の臭いが加わって、異様な雰囲気をかもし出した。顔をしかめる人たち。だが、教祖様は意に介する様子もなく、老人に向かって、こう言った。
「いま、あなたの身体の中にたまっていた毒が体内から流れ出しているのです。そのまま、放っておきなさい」
この時、手かざしを受けていた者の中に、立川市の大森新治郎がいた。その老人のすぐそばに座っていた大森は、最初、そのことに気づかなかった。靴下とズボンのおしりの辺りが生温かくなってくる。自分が小水を漏らしたのかと、調べてみたが、そうではなさそうだ。岡田光玉の声でやっと、その意味が飲み込めたというのである。
「真光」の教勢が伸び始めたのは立川市に道場が出来てからだと、教団の資料はその歴史を語っている。
立川に初めて「真光」を伝えたのは大森新治郎であった。大森は立川基地の運転手だった。昭和三十四、五年といえば、日本中を巻き込んだかに見えた六〇年安保で揺れていた頃。米軍基地がまだ、幅をきかせていた時代である。
大森が何故、「真光」に関心を抱くようになったのか、故人となった今では心中を尋ねることは出来ない。妻のひでによると、とりたてて何処を患っていると言うわけでもなかったのに、知人から聞いて、岡田光玉の話を聞きに神田まで出かけて行ったというのである。
浅草で生まれ育ったという妻のひでは、伝法な口調でこう語っている。
「あたしゃ、連れ合いに言ったんですよ。まあ、悪いことをしに行くわけじゃあないから、反対はしませんが、あまり変なことを言い歩くと、近所の人に頭がおかしくなったんじゃないかって言われるから、ほどほどにしといてね、って。そしたら、あなた、行ってすぐ“御み霊”もらって帰って来ちゃった」
つまり、信徒になったということである。
新治郎はひでに、「お前も入れ」と言ったという。
新治郎が「入れ」と言った気持ちは、「真光」によって病を癒された今になってみればよく判る、とひでは言う。

ひではひどい喘息持ちで、発作が始まると息が止まりそうになる苦しみを何年もの長い間続けていた。その上、心臓肥大。よくあるケースだが、医者を転々としても治らず、見放された状態にあったのである。
夫の粘り強い説得に負け、ひでは「騙されたつもりで」、手かざしと研修を受けに、夫と共に、岡田光玉を訪れた。須田町の道場である。
「あなたは随分、身体に貯金しましたねえ」

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01月25日(日)
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