2009年12月19日(土) |
死を強いる見えない力 |
日本が世界に冠たる自殺大国であることは私も承知していた。 たしか人口比率に換算すれば群を抜いているのではなかったか。 それを思い出しながら読み始めた記事に息を呑んだ。 週刊ポスト12.25号に掲載された佐野眞一さんのルポである。
「平成不況を歩く」というシリーズの第三弾。テーマは「自殺大国ニッポン」。 ことしも自殺者は三万人を超え、三万五千人に達しそうだという。これが最初の衝撃。
記事は丹念に数字を拾う。二番目の衝撃はその数字のなかで子供の自殺が急増していること。佐野氏はこう書く。
>一日に三人近い子供が自殺するこの国は、完全に社会の底が抜けている。弱者を次々と死に追いやる政治なき”内戦”となっている。
次に自殺の現場に赴きその凄惨な現場を伝えてくれる。もしぼんやり自殺を考えている人がいたのなら、これを読むだけだけで自殺に対する厭気が起きてくれるように、と願っているのかと思いたくなるほど精密に描かれている。たまらない。しかし
>想像力が停止してしまう地点の先
を考えるには必要な事でもあろう。
自殺について、今年私が衝撃を受けたのは音楽家、加藤和彦氏の自殺である。彼の遺書には「世の中は音楽を必要としていない」という文言があったように記憶しているのだけれど、その「世の中」はどうなのか。
>明日は今日よりも良くなると信じて生きてきた高度成長世代にとって、明日は確実に今日より悪くなる社会の到来は、誰がいつ自殺してもおかしくない絶望的な気分を醸し出している
他方、まったく自殺のないコミュニティーも存在する。佐野氏が挙げているのは山口県周防大島近くの沖家室島である。後期高齢者が(それも独居の)三割を占める島で30年近く自殺した島民は一人もいないという。
豊かとは言い難い。年金だけのつましい生活である。 この島の「精神的支柱」として書かれているのが泊清寺住職、新山玄男(しずお)氏。京都の大学を出てから生まれ故郷のこの島に戻った。
新山氏曰く「この島の人たちは普段から死のイメージトレーニングが出来ている。だからこそ自殺を忌避できるのだろう」と。 この島では朝から読経の声が島に流れているという。
宗教が自殺の抑止力になっているのはたぶん間違いのないことだろう。そうしてそのような場がしっかりあるということは、寺院が山ほどある我らが京都はどうなのかと思わず考えてしまうのだった。
とまれ、逆説的だけれど彼岸の死を見据えて生きることが、日々の営みを支えることになっているのかも知れない。
さて、この記事の終盤でもっとも衝撃を受けた。 場所は福井県東尋坊。言わずと知れた自殺の名所である。 つい最近、NHKの自殺をとりあげたスペシャル番組にも出演されていた茂幸雄さんが取りあげられていた。
この方の話はテレビにおける主張の説得力に感心したのだった。 「誰でも人といたいのです。横で誰かに話を聴いてほしいんです」 そうやって彼は自殺を何度も止めてきた。
私が衝撃を受けたのは、こういう人たちが活動する東尋坊参道の土産物屋で筆者が見つけたTシャツである。 黒地に白くこう染め抜かれていたそうだ。 「毎日が地獄です」 「ほっといて下さい」
言葉を失った。
>人の死を観光にまで利用し、自殺までビルトインされた希望なき社会に生きている。
これが佐野さんの結びの言葉である。まさにそうだろう。そういう社会を我々は生きているのは間違いないことだろう。
加藤和彦さんの公開された遺書の内容に、じわじわと彼を追いつめ、ついには命を奪った「なにか」をぼんやり感じていた自分ではあったのだが、このTシャツの風景の中にそれを見た気がした。
自分が書くことでその「何か」に対峙しうるかどうか、考え、そしてなんとか書きたいと思う。
佐野氏はこうも書くのだった。 >私にせめてできるのは、年間三万人を超える人々に死を強いる見えない力の正体を粘り強く突き止め、それを正確に書きとめることだけである。
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