2009年11月17日(火) |
日常の尊さを描き続ける |
京都新聞・2009・「追想」より。
(前略) 五年前の初夏、小説の舞台でもある川崎市の自宅を訪ねた。 小説に「ありがとう」「よかった」といった言葉が多い理由を尋ねると、庄野さんは言った。 「悲しいこと、嫌なことは排除する。そういう態度を貫いています」 作家としての強固な意志だった。 (後略)
以上、転記しておきます。
庄野潤三さんは今年、9月21日、88歳で老衰のため亡くなりました。庄野さんの「家族小説」は1965年より書かれ始めていますが、若い読者が増えたのは1995年からの文芸誌への連載からだといいます。この作品の体温を貴重に感じる方が多かったのでしょう。 その連載から多くの単行本・文庫本品が生まれていきました。
老夫婦の温かな物語。血も暴力もない一連の作品群にぼくはたちまち魅了され、ずっと読み続けてきています。
ぼくの大好きなある作家がこの一連の家族小説作品群を「衰弱」と評したことがあって、「ああこの人とは感じ方が全然違うんだな」と自覚したことがありました。 よいことでした。自分らしさに気づかされたわけですから。
上記のインタヴューを知るまで、おそらくそうだろうと推理はしていたのですが、やはり信念として穏やかな物語を書かれていたのだと知ると、身の引き締まる思いがします。それを続けることは大変なことだと考えるからです。もちろん「衰弱」などではなく。
物語に登場してきた作詞家・作家の阪田寛夫さんは、物語が続くいていく中で亡くなり、そして庄野さんが亡くなり、やはり物語によく登場していた阪田さんの次女である、元宝塚の大浦みずきさんが先日亡くなりました。
登場人物の何人かと語り手ご本人も人生から去って行かれましたが、手もとにいくつもの作品を残してくれました。 いつまでもあたたかい気持ちにさせてくれ、小さな声で人生を励ましてくれ続けています。
小説に対する信念を、座右のものとしたいのはいうまでもありません。
Twitterをやりだしてから、まったくブログを書かなくなってしまいました。「おとなのコラム」の連載だけは書いていますが。 ぼくの日々の動きはTwitterに書き込んであります。 こちら。 よろしかったらフォローしてくださいな。
昨日、一気に冷え込んだ京都。半袖で過ごせる気候から一気に「冬」へ。日本海側から断続的にしぐれ雲が京都盆地を席捲。おまけに昨日は木枯らしが吹いていたので空気が澄んでいました。となると時雨につきものの虹も当然、市内にかかるわけで、昨日のものは規模と位置があまりに劇的だったので、京都新聞朝刊の一面を飾るほどでした。
虹は二重。くっきりした内側の虹が「立ち上がった」場所は京都御所。御所から南へ半円がかかりました。。その上にもう一重の虹が薄くかかったのだけれど、新聞の画像ではぼんやりしています。 その立ち上がった場所が天神さんの南あたり。うちの近くからそれがはっきり見えました。
劇的なほどの季節の変わりよう。 週末にはまた暖かくなるらしいけれど、俄にそのことが信じられないほどの、冷え込みでした。体もすっかり「冬仕様」になってしまったし。
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