散歩主義

2009年08月27日(木) 名前のこと/リヴ・ゴーシュ再読のこと/小夜曲

■ポール・オースターを何冊か注文。机の上には「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」を置いて、少しずつ読んでいます。それと並行して再読しているのが江國香織さんの「左岸」。

高村薫さんの集中読書をしている最中から横に置いていました。高村さんの「晴子情歌」と江國さんの「左岸」は、その書きようはまるっきり違うのだけれど、共通している点があるのです。
すくなくともぼくは、物語のずっと底のほうで感じていたからです。

それは、いってみれば「女の一生」であるからです。その切なさ…。
(ぼくだけの感想だからあてにしないでほしいけれど。)

高村さんの本をすべて読み終えてから、すぐに「左岸」をもう一度しっかり読みたくなったのは、硬質の文体に疲れただけではありません。

「冷静と情熱の間」でがっかりしたので男性側のほうは読んでいなかったのですが、とうとう「右岸」を注文してしまいました。「左岸」を壊しそうだと感じたらすぐ読むのを止めますが。

■今日、いつも書くことにアドヴァイスをしてくれる方から「やっぱりペンネームが必要だったね」といわれ、早速つくることに。
ずっと本名でやってきたけれど、様々な社会的な「事情」から必要だ、と。

シンプルなのにしようよ、ということで、ぼくにふさわしいという漢字を旧字で一ついれてつくってくださいました。

今まで使ったすべてのハンドルネームとは違う名前です。
活字になったときに皆さんにお伝えします。
なんども広告の裏で旧字を練習し、さらさらと書けるようになりました。

■早朝のラジオで高橋真梨子さんの「ごめんね」を聴き、聴き入ってしまいました。彼女も大好きな歌手のひとりです。で彼女のアルバムを発注。一番聴きたいのは「ごめんね」「for you」などのヒット曲以上に「とまどい小夜曲(セレナーデ) 」。松本隆さんの作品です。



2009年08月25日(火) バーネット・ニューマン/アンナの光

「高村薫の夏」が昨日、終わった。
「マークスの山」「照柿」「レディ・ジョーカー」「晴子情歌」「新リア王」「太陽を曳く馬」の通読完了。
これでようやく自分のカキモノにたくさん時間がさける。

昨日は最後の「太陽を曳く馬」を読了した。
とにかく難解だった。考えた。調べた。行きつ戻りつ、考えながら読み進めた。
上巻の福沢秋道の真っ赤な絵画をめぐる考察はスリリングで、ぐいぐいと読めたけれど、下巻の仏教、オウムをめぐる「論考」には、何度も立ち往生した。
けれどもそれでよかったと思う。
すくなくとも考え続けることができたから。
「私」とはなにか。「自由」とはなにか。「生きる」とは。「魂」とは。

問題の裾野は広く、そして考えるのも生きていくのも「私」独りであることをしょっちゅう思い返してもいた。

この本から得たものは確かにある。だけどなかなかまとまらない。これからのぼくじしんの作品に反映もするのは確かだろうけれども。
とにかく「そうなのか?そうなのか?」と、問い続け、問いかけられ続けた。
まったく希有の読書体験だった。

読み終えると無性に絵が見たくなった。
バーネット・ニューマンの「アンナの光」。
千葉県佐倉市の川村記念美術館にある。
「太陽を曳く馬」の表紙は上下ともマーク・ロスコ(これも同美術館にある)だけれど、「秋道の赤」の光、と考えたならば、作品中でも指摘されているし、ぼくもむしろこちらだろうと思ったのがバーネット・ニューマンの「アンナの光」なのである。

いちめんの赤。
どんな「光」なのか…。

川村記念美術館



2009年08月18日(火) 「人は先ず描くものであった」

厳しい残暑が続くけれど、朝晩の気温や夕暮れの風などは、もう夏の終わりが始まっていることを告げている。

その終わりにあたって、今年の夏はどうだったかと振り返ると「高村薫を集中的に読んだ夏」となる。

一人の作家の長編だけに絞ってここまで読んだことは果たしてあったか。
正確にいつからになるのかは読書メーターや日記を振り返らないとわからないけれど、とにかくこの夏は高村薫の本を読み続けた。

他に読んだのは村上春樹「1Q84」と山田詠美「学問」があるぐらいだ。
(それと江國香織さんの週刊現代の連載を切り取ってつくっている私製の本が進行中、というところ。)

高村さんの作品は全部家にあるので、再読の形になったけれどミステリ作家と呼ばれていた頃の作品は読んでいない。直木賞を獲った「マークスの山」から読み始め、「照柿」「レデイ・ジョーカー」「晴子情歌」「新リア王」そして最近出た「太陽を曳く馬」と読み進めた。

ほとんどが上下巻の二冊。そうでないものも小さな字の二段組みというタフな連続読書になった。
「タフ」というのは長さだけでない。テーマがシビアであること。著者が問い続けることをやめない、ということ。読者が感じ続け、考え続けなければならないということ故である。


今「太陽を曳く馬」の下巻に入っている。いよいよ宗教との格闘が始まり、終わりが見えてきたので日記にも書けるようになった。

この膨大な長編を連続して読もうと思ったのは、「マークスの山」「照柿」「レデイ・ジョーカー」が合田雄一郎が主人公の物語であり、「晴子情歌」「新リア王」の主人公が福沢彰之であって、「太陽を曳く馬」で両者が出会うからであった。

全編読み通しての感想はまだまとまらないけれど、いろんな意味でとにかく凄い。二人の生き様を追いながら読むという狙いの手応えは十分にあった。

今現在では「太陽を曳く馬」上巻にあった「人は先ず描くものであった」という記述が強く心に残っている。
「太陽を曳く馬」とは北欧の洞窟に残された原始人類の描画につけられたタイトルである。そして作中、高村さんは認識するのだった。言葉以前に人は描くものであった、と…。

しかし絵を考えることによって余計に言葉のことを考えさせられる。そして考えに終わりがない。まして、つたないけれども言葉をつかって「作品」を書いている自分であるのだからなおさらだ。

言葉を持たない者は生き延びていけない。高村さんは最近のインタヴューでそんなことも語っていた。

とりあえず読書の先を急ぐ。



2009年08月10日(月) Twitter

ここのところTwitterに呟きを書き付けている。
その時、その時の「呼吸」のつもり。
よろしければお付き合いの程を。
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