星占いをけっこう読むのだけれども、今週はどれもこれもが「ハードでタフな一週間。空回りに注意」というようなニュアンス。アクセル踏んでも前に進まない、というかローギヤで坂を下っていくというようなそんなかんじ。 他のスピリチュアル系のものまで同じだから、多分しんどいんでしょうね。
ご注意召されよ、山羊座のみなさま。
だいたいが小さい頃から行動に癖があったように思うんだけど、本を読む時もスタイルがいろいろだった。 最近は立って読むのが気に入ってる。このほうが腰が楽なんだ。 それと立ってると眠くならないし。
重心を左右に少しずらしたりしながらずっと立っているんだけど、ふくらはぎが辛くなったら歩きながら読む。 座って読むのはほんとに苦手。体が斜めにずれていくんだよね。
とても暑い日だった。ステロイドの副作用からハナが抜けきったようで、一安心。
相変わらず高村薫を集中的に再読している。それにしてもこの人の風景描写は本当に凄い。「照柿」の飛田新地、「マークスの山」の剣岳、そして「レディ・ジョーカー」の品川・羽田。そして競馬場の臨場感。 ただただ凄いと感心ばかりしている。
考えてみたら、そのどれもがぼくが若い頃に彷徨したり、その頂をを仰ぎ見たり、成人してから仕事で歩いていたところだったりするものだから鮮やかに脳裏に描くことができる。
「晴子情歌」では北海道がでてくるけれど、ここも小学校の時、一年半だけ父の転勤のために住んでいた。
そんな彼女の新刊「太陽を曳く馬」がいよいよ7月24日にでる。 「宗教」というテーマが「1Q84」と被るなあ、と「1Q84」を読んだときに感じたのだけれど、「新潮」に連載していたときに感じた強烈さは「1Q84」とは別種のものだった。あれから原稿に手を入れておられるはずだから、さらにどうなったか、と期待が高まる。
この二冊、たぶんクロワッサンとドイツパンぐらい違う。
さらに塩大福のような江國香織さんの「真昼なのに昏い部屋」の週刊現代での連載も着々とファイルにたまっていて、こちらも毎日読み返している。
まあこれだけ好きな作家が散らばっている人間も珍しいんだろうな。
2009年06月24日(水) |
本屋さんへの支払いとか |
今月は本を買い込んだ。「1Q84」上下の他に、南直哉、村上龍、モンキービジネス、橋本治などなど。 とどめをさすように30日には山田詠美さんの「学問」がでる。 「新潮」に連載しているときから、これは傑作だ、となんども書いてきたけれど、ご本人が婦人公論のインタヴューで「これ以上のものは書けない」とおっしゃっていた。
いいですよ。ほんとに。
ということで今月は本屋さんへの支払いが結構ある。 なんだかいつのまにか定額給付金は全部本になった。
同時並行で何冊か本を読んでいて、さらに長編小説と連載を書く。 モンキービジネスで村上春樹さんが語っているけれどほんとうに「書くということは体力勝負」。 酒も煙草もやらないというアドヴァンテージはあるものの、ぼくは歳だ。
高村さんにならって、もっと早寝早起きをしないといけない。 時間を無駄にしてるのは時々手を出す気晴らしのオンラインゲームか…。 足を洗おう。 金輪際やらない。
だいたい小説よりも詩を読んでいたし、書いていた。 小説でも長いのは積極的に読んでこなかったし、書かなかった。 ただ、はまると怖ろしいことになるのはわかっていた。 他に目がいかなくなるのだ。
長い小説…。 ユリシーズ、チボー家の人々、カラマーゾフの兄弟…。 最近、高村薫さんの小説のうち長いものばかり再読している。 「地を這う虫」という優れた短編集もあるのだけれど、この人の長編小説は凄い。小さな字で上下二段500ページ近い「照柿」を今日読み終えた。 二度目なので少し早かったかな。 その前に「マークスの山」を再読した。これはそこまで長くない。
この二つの作品のラストは切ない。息を呑む。 続けて読んだせいで「1Q84」一色の脳味噌の色が大部変わった。
高村さんの「レディ・ジョーカー」も長い。 「新リア王」「晴子情歌」も長い。 実は全部揃っている。 何故だか再読の旅に出てしまった。
自分が長いものを書いていないから余計そう思うのかも知れないけれど 小説の醍醐味は長編にある、と信じている。 短編小説の妙味、美しさ、余韻はむろん理解できるし、そもそもそれをめざして自分も書いてもきた。 だけどやっぱり長いのは凄いのだ。
ただしどこかで「判断」しないと作品によっては時間の無駄になる。 だめだ、向いてない、とおもったらさっさと読むのは止めたほうがいい。 他の作品に向かったほうがいい。
書くのはどうだろう。 感覚だけでは書けない。 橋本治さんが「題材では書かない。テーマで書く。だからとてつもなく長くなる」と書いていた。橋本さんの作品にも長いのが多い。珠玉の短編もあるけれど…。
それとたぶん…書くことが好きでないと書けない。
で、長編小説をとにかく書ききったら、違う地平が必ず見えそうな気がして書き始めた。
そういうとき高村さんの作品はとても励ましになる。 その本が横にあるだけで励みになる。真っ向勝負の作品群。読み終えたときの虚脱にも似たカタルシス。それを思いだすだけで自分も前に進めそうな錯覚を抱ける。錯覚でかまわないからとにかく、あこがれて、それから腰を据えて、自分の書きたいテーマを決めて書いていく。
ぼくのこれまでの最高枚数は四百字詰め原稿用紙130枚くらい。
高村さんの「照柿」は1400枚だ。読み終えたときの「ズシーン」がたまらない。くどいようだけれど。 せめて700枚くらいの作品を書いてみよう。
老犬ハナの容態は緩やかに傾斜を滑り落ちていくようだ。 ぼくらにはその傾斜角を緩やかにするぐらいしかできない。 なるべく刺激を与えたくないので、ハナのいる部屋ではテレビは最小限にした。ほとんど観ない。日射しの強い日はシェードを降ろし、夕暮れは早めに食事を済ませて人も犬も眠れる態勢にする。夜中に二度は起きるから。
そんなことを今日、日記に書き始めて、久しぶりの詩になっていることに気がついた。途中で焦点を絞って詩に書き換えてファイルに保存。改めて日記を書いている。
老犬の介護によって枠の嵌められる日常こそ、書くことに読むことに最適になっていると思うときがある。いや思うようになった。 過剰なことができない。なるたけ外に出かけず静かにしていなければならない。壊れた体をそのまままるごと「そういうもの」として受け入れなければならない。 そうすると静かな気持ちになる。それは犬とぼくが一緒に生きていくためにとてもいい状態である。
「1Q84」の騒動が一段落し、ぼくの読書と執筆も動き出している。 これまでの日記にも書いたようにたしかに素晴らしい作品だった。だけど直後にぼくは高村薫さんの「マークスの山」と「照柿」の再読をはじめた。 ぼくは高村さんの作品をミステリと思って読んだことはない。まさに、生き方と精神のありようが克明に記された作品として読んでいる。 つまり「小説」として。ちょっとテイストの違うものを読みたかった。
同時に自分が書いている連載の励みにしているのが江國香織さんの連載「真昼なのに昏い部屋」だ。すでにクリアファイルでいつもの「自家製の本」をつくっている。 文章のたたずまいがとにかく素晴らしい。
そして七月には平野啓一郎さんの新作「ドーン」がリリースされる。 「ドーン」つまり「Dawn」「夜明け」という意味と了解している。 「決壊」の終わり方が「出口無し」というように読めたから、続編が必ずあるだろうと思っていたし、それを期待する読者の声もネット上で多かった。
さて、詩を推敲し、本当に久しぶりに投稿しようと思う。
梅雨に入った途端にいい天気が続くというのが、ここ数年の傾向のように感じる。それでもやはり梅雨は梅雨なのであって、雨が降る時はじくじくと二日も三日も降り続く。
そんな雨降りでも老犬ハナは頻繁に外に出たがる。室内でも排泄できるのだけれど、必ず外に出たがるのだ。下肢が弱っていて踏ん張りが効かなくなってきて、いつも腰を支えてあげるようになった。
晴れの日は問題ないのだが、雨の日に課題ができた。カッパが嫌いなハナに傘をさしかけて歩いていると、どうしても傘を地面に置かないと腰を支えることができない。 最近ではどこで停まるかわからない。例えば道路を横断中に立ち往生することが増えだした。16キログラムの体だから、ひょいっと抱きかかえることはできるのだけれど、どうにも傘が邪魔だ。両手が空いていないと、排泄の処理だって手間取る。車にも何度かフォンを鳴らされたし。
そこでカッパの上下を新調して、それを傘に替えようと思った。けれど、考えてみるとルーティーンの時間以外にも突然、外に出たがることが多くカッパをいちいち着こんでいては時間がかかる。 そこでポンチョを買うことにした。
さらにポンチョを羽織るのも面倒な時や小雨の時は、レイン・ハットだけを被ってでることにした。
で、実はこのレイン・ハットは父親の遺品である。 若い頃から山歩きが好きで、老いてからも散歩が大好きだった父のもの。亡くなって半年後に母親から手渡された。
クローゼットの奧にたたんでしまっていたのを、今日、玄関横のフックにかけた。ハナの散歩用のリードや鞄と一緒に。 夜、ちょっと被ってみた。サイズがぴったりだった。
あとは晴れてる間にハナのカッパを買おう。慣れてもらわないと。
高村薫「マークスの山」を再読した。 村上春樹「1Q84」を読んだあと、痺れたような脳を抱えたまま連載を書いていたのだけれど、何故だか高村さんの本を無性に読みたくなったのだった。
高村薫と村上春樹のどちらも好きな作家だ、というと首を傾げる人もいるかもしれない。両者の作風はまったく違うから。 しかしどちらも「読める」というぼくみたいな人もいるだろう。
天吾と青豆に匹敵するふたりとして、水沢裕之と真知子の二人を無意識のうちに求めていたのかもしれない。 青豆の孤独とマークス、つまり裕之の孤独を並べてみたかったのかも知れない。ともに殺人者だ。読んでいて震えが来るほどの孤独…。
いや、そんなきれい事じゃなく、高村薫「太陽を曳く馬」の刊行を待望する気持ちが向かわせたのだと思う。きっと 「1Q84」ではほのめかされているオウム真理教が「太陽」ではまともにでてくる。 たぶん高村さんの作業は「1Q84」天吾の章に書かれているように進んでいるのだろう。内容も変わる可能性があるから、「新潮」連載時の内容をこれ以上書いても仕方がない。
ただこれだけはいえると思う。 社会に関わっていこうとする強固な意志が共通している。
暴力とセックスを書かないと決めてスタートしながら、魂に触れるために悪を包含するところまで書く世界を広げてきた村上氏。 ミステリの第一人者としてスタートしながら、「社会と繋がっているのが物書きだ」という高村氏。 しかし直木賞を獲得した「マークスの山」でさえ、「自分の読みたい小説ではなかった」と言う。そして、遭遇したのが阪神淡路大震災であり、オウム真理教のサリン事件だった。 これは村上氏にも共通する。いや全国民に共通する「体験」だった。
大阪に住んでいる高村さんは震災の揺れを経験したし、かつて神戸に住んでいた村上さんも被災地はよく見知った土地だった。 オウムは全国民がショックを受けた事件だった。 この二つの出来事で二人の作家は変わった。あるいは影響を受けている。
同じ時代の二人の作家。 作風はまったく違うけれど、二人ともずっと読み続けていたい。 他にも好きな作家はたくさんいるけれど、特にこの二人は。
よくよく考えてみると、つまり二人とも作品が魂に触れてくるからなのだと思う。作品で魂をわしづかみにされた事があるのだ。
今、橋本治「蝶のゆくえ」を読んでいる。 これもまた孤独な主人公の短編が集められている。すべて女性である。
注・高村さんの「」の発言は2004,12,19付「日刊スポーツ」のインヴューから。
昨日の晩から、村上春樹嫌いの「文庫本主義者」がぼくの「1Q84」を読み出した。 さてその途中の感想はというと、「うん、例によって村上ワールドだね」の一言。 まあ確かに「美しい耳」とか、かつての村上作品のいろんなパーツが散らばっていたりもする。
で、ぼくは高村薫「マークスの山」の再読をはじめた。解毒剤というわけではない。 遠くない将来に刊行されるであろう次の高村作品「太陽を曳く馬」も「1Q84」とモチーフが重なっている、ということもあるにはあるけれど…。
昨日、「新潮」の残っているバックナンバーから連載分を切り取り本に仕立てた。こちらもじっくり読み返したい。 それから橋本治「蝶のゆくえ」もその次に読む。
上手に集中しないと。
今日の猫の画像です。 上からピピ、キキ、ルルの順です。 チャチャはどうしても写せませんでした。
2009年06月05日(金) |
「1Q84」の余波、それとも後遺症 |
「1Q84」の余韻がまだ残っている。 長編ならではのカタルシスと、終盤で心が「きゅうっ」となったせいでもある。 また無性に自分の物語を書きたくなったし、本が読みたくなった。 どちらも長編で。 またこの本は自分で何かしらモノカキをしている、アマチュアの人に(プロの人でもいるかも)影響を与えずにはおかないだろうと思う。肯定的であろうと否定的であろうと。
ぼくは波乗りよろしくこのまま「乗っていきたい」。 作品に対して「そりゃあないぜ」という声も聞こえてきそうだ。確かにツッコミどころ満載の作品だった。 だけどそんな声を圧倒し、問題にしないほどに「物語のパワー」は桁外れに凄い。
少し言及されている神話にも似て、この小説はなにより「とてつもない物語」として読まれるべきだと思う。 そしてなによりこの「読みやすさ」も、内容が読者にたたみかけていく力強さの要因にもなっている。 そして長編の醍醐味。 やっぱり長編ならではの力、凄みはある。
ところでぼくは作品にのめりこむと文体が伝染する。ぼくにいちばん伝染しやすいのは保坂和志さんと村上春樹さんの文体だ。 昨日から「おとなのコラム」の連載原稿を書き始めているけれど、もろに伝染している。 でもかまわない。文体なんてあとで直せる。ここのところの「です、ます」に。 それよりも「物語」の饒舌さとパワーこそぼくに乗り移れ!!と念じるぐらいなのだ。
この春樹パワーに拮抗できるのは「合田雄一郎」だろうか。 発売が待たれる。 その前にもう一度高村作品を読んでみる。
2009年06月04日(木) |
「1Q84」読了。そして「しんめとりいの猫」 |
「1Q84」読了。
夕方たまたま「文庫本主義者」と話していたら、彼女が「どういう話なのかなあ」と呟いた。その何気ない一言に過剰反応してつらつらと筋を語り初めたら、怒って止められた。 「私だって読むんだからそれ以上いわないで」。 なのであまり書きません。
読み終えて残ったのは、なんだろう。 「衝撃」かな。 もちろん今年読んだどの本よりも。山田詠美さんの「学問」の連載を通しで読み終えた読後感と同じくらいか…。それ以上か。 「ああ」と漏れた声が、自分の奥底に隠されていた本当の自分の声のような気がして、ぎくっとした。
本についてはこの一言。 「説明しないとわからないことは、説明してもわからない」 是非、ご一読を。
自分の物語を紡ぎ出したい。今猛烈に感じているのはそのこと。 そういう意味で、この小説は人生を前進させてくれた。 強烈に。
2009年06月03日(水) |
Book2へ…。猫の「牢名主」とその「上」 |
「1Q84」、Book2に入りました。 村上春樹はイマイチ、という「文庫本主義者」にとうとう「1Q84」を読んでいることを告白。すると、好きなんだからいいんじャないの、と。 彼女は村上作品を読まないわけじゃない。「ノルウェイの森」はいいと思う、とまでいうのだけれど、他の作品は読んでみたけれど駄目なのだ。
おおかたの「村上春樹離れ」をした人と同じく、「ねじまき鳥」の人体カワハギ、と「カフカ」の猫殺しのシーンで、だめ押しの×なのだ。
「セックスと暴力は書かない」という掟を作って始まった村上春樹氏の創作の歴史は、書く範囲を広げ続けてきた。「書かない」のではなく「書けなかった」というところが正確なのでは、と京都新聞の「風の歌」に書かれていたように記憶している。
しかし物語が人々の魂に触れるまでの深さを持とうとするとき、セックスも暴力も、そして「悪」までも包括する必要があったのだろう。 村上氏はこつこつと書ける範囲を広げてきた。書かねばならない必要があったからこそ、だと思うけれど、その創作の道筋をゆく姿勢はきわめて真摯なのものだと思う。
それにしても村上作品のデイテールを読んでいると生活をしゃんとしなきゃ、という気になる。そういう覚醒する部分は山ほどある。
朝の8chのワイドショーで、「でさあ、結局どういう内容なのよ教えてよ」とイライラしながら広言するメインキャスターがいた。
あんた本読めよ。いい年してんだからさ。思わずテレビにつっこんでしまった。
牢名主なのだ。
牢名主の上なのじゃ。
2009年06月02日(火) |
「1Q84」…Book1を読み終えました。そして「真昼なのに昏い部屋」。 |
読書に目が疲れたので珈琲を飲んで休憩しながら、ふと、今年は大作ラッシュになるんじゃないかな、と思った。
もちろんこの村上春樹「1Q84」。 同じように長編で高村薫「太陽を曳く馬」。 上の二作よりは少し短いけど山田詠美「学問」。 さらに池澤夏樹「カデナ」。
全部、新潮社だ。下の三作は月刊「新潮」に連載されていたから、読んだ。 おそらく今、ハードカヴァーのための直しや継ぎ足しや言い換えや、あるいはごっそり書き換えが行われているのだろう。
そのあたりの作業工程が「1Q84」にはでてくる…。
そして「1Q84」がふたりの物語のパズルのように、あるいは一つの楽曲の二つの変奏曲のように同じフレーズやコードを使いながら同時進行しているらしい、と見えてきたように(作品上、と、とりあえずそうしておく。これからどうなるかわからないから)
山田詠美「学問」は四人の物語が交互に語られるし、池澤夏樹「カデナ」も沖縄の、登場人物それぞれの物語が語られる。こちらも確か四人。 人称はそれぞれだ。切り替えもあれば三人称もある。
これもシンクロなのだろうか。 物語が世界の暗闇から浮かび上がるときに同じ方法を選択し、作者にそれとなく強いているとしたら…などとおもってしまうのだ。
それにしても「1Q84」期待に違わず、おもしろい。 とても読みやすい。 音楽はヤナーチェックの「シンフォニエッタ」の他にバッハの「平均律クラヴィーア曲集」と「マタイ受難曲」が現れた。
バッハは好きで集めていたから両方ともある。 今夜あたり聴いてみようかな。
次はBook2。 物語は果たしてどうなるのか。
誰にもいえないし、言い方もまだわからない「大事なこと」をすでに物語からかなり受け取っているけれども…。
そして「真昼なのに昏い部屋」。 週刊現代で江國香織さんの連載が始まりました。 「1Q84」が緊迫感が臨界に向かって行きつつある途中で、この連載を読むと 「まあ、大人なんだし」とか「まあ、揶揄です」とか、そう言う印象的なフレーズに肩の力が抜け、ああ、と感じ入ってしまうのです。 やわらかで静かで、それでいてどこか凛とした空気も漂わせて「お話」が始まりました。
やっぱり江國さんはいいです。ほら、日記の文体まで変わってるし。
とうとうこんなことに…。
ぼくは寸暇を惜しんで「1Q84」を読書中。
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