散歩主義

2008年03月30日(日) もうすぐ完成します。

作品集「街函」がもうすぐ完成します。

内容の推敲は前回同様、顔から火を噴きながらすすみました。
ぼくのノウミソの性質なのか、作品を紙の上に置き換えて、ようやくいろんな直しが「見えてくる」という癖があります。

削り、足し、書き直し、削り、削り、書き直し…
延々とその繰り返し。
川上弘美さんの「真鶴」に
「きりがなくなる頃が、小説は、いいんですよ」
という青茲の台詞があるけれど、今回はその台詞を頼りにしました。

ネット上はなによりもスピードが優先されると思っていますから。いつ頃からか書く時に集中して、書いたものにはできる限り手を入れないという意地のような「きまり」が定着していたんですが、それを一掃しました。

ネット上の作品やパソコンの画面は、「創作ノート」か「完成品」のどちらかで、その前段階とか移行していく段階は紙の上でないとぼくは駄目です。

今、連載している小説も一度紙の上で書いてから打ち込んでいるような状態です。立ち上がりはパソコンの方がいいんです。それから紙の上に飛んで、またパソコンへ、というやり方です。

今日も読書家の友人と、プロとアマチュアの違いは「直し」をどれだけ徹底的にきるか、ということかもしれないという話になりました。
アマチュアは「書けた」ということに最大の価値があるのであり、プロはそこに徹底的に磨きをかける。その差なのかもしれない、と。

もちろんプロでもほとんど推敲をしない、という方もいます。
だけどぼくは駄目ですね。やり方を変えました。

で、その作業があと二つになりました。
掌編が24。詩が11篇。
普通の出版では高価になるし、あまりやってくれないカラー画像も中に挟み込んだり和紙を挟んだり、という本になります。

もうしばらくお待ち下さい。



2008年03月29日(土) 「贋伊万里の上には」

「おとなのコラム」更新されました。

「贋伊万里の上には」といいうタイトルです。
こちらへ。

「縦書き」はこちら

花冷えの夜です。




2008年03月26日(水) 平面から立体へ

■おととい京都も桜の開花宣言がだされました。
うちの近所では平野神社の早咲きの枝垂れ桜がほぼ満開。といっても一本だけ。大多数のソメイヨシノはまだこれから、山桜はまだまだ。
だけど暖かい日が続くので一気に来そうです。

■自分の脳の使い方をいろいろ検証しているうちに、障害以前にやらねば行けない習慣、あるいは潰すべき習慣のあることが見えてきました。

「脳」とは基本的に「楽しようとするもの」「ぼけていくもの」。
そういうものなんだと思えば、対処の仕方も簡単にわかります。
放っておけば何にもできなくなるということです。

仮に「障害」の可能性があるとしたら、テレビとパソコンという「壁」。
比喩ではなくて「壁」を見てるのと同じなんですよ。
情報は得られます。もうそれだけでいいんじゃないかな。
感情系を煽る仕掛けがそこら中にあるからついつい見続けてしまうけれど、それが危ない。

「平面」ばかり見続けていると眼が動かなくなる。
それはとても偏った脳の使い方に結びつき、すみやかに「ボケ」ていくんです。
ちょうど高速道路を走っていると眼が前だけに固定され、視界が狭くなり、前方以外の「情報」が全部すっ飛んでいる状態。あんな感じです。

画面の中にも立体感がある、といってもそれはヴァーチャル。
人間の脳はそんなに単純じゃないし、性能も低くありません。
すぐに「立体感のある平面」と認識するのです。

よく凶悪犯罪者がゲームにのめり込んでいたりして、ゲームの内容が云々されるけれども、問題にされるべきは内容ではなくて画面を眺め続けていることにあるんじゃないかな。
前頭葉がいかれて、感情系の奴隷になってしまうから。
誰だって何時間も「壁」の前に立たされたら、アタマがおかしくなるでしょう。
それに人間を人間たらしめている前頭葉の理性だとか判断とかはゲームをやるうえでは邪魔だし。むしろ不要。「反射」が命だもの。
でどうなるかというと「ボケ」るんです。

いろんな例があるけれどもやばいです。
これからは特に中高年だけでなく若い人にでてきそうですね。

■今までのものを整理し、組み立て直しつつ、書く作業も進めています。
そんなこんなで、あらゆることで、どうしてもパソコンの画面を見つづけないといけないので、散歩と休憩は必ず必要。
眼を動かして世界を見なければ。
すこしでも用事が済んだら間髪入れずにスイッチを消します。

本を作っていて思ったんですけど、やはり本は立体。紙の一枚一枚は平面といえるかもしれませんが、めくれるし、湾曲するし、破れるし、書き込めるし、こじつけて言えば厚さ0.1ミリの立体ともいえます。

そんな「紙」をあつめておもしろい「立体」をつくりたいです。


ばちん。



2008年03月19日(水) 原田芳雄の唄を久しぶりに聴く

NHKのお昼の番組にクミコさんが出るというのでチャンネルを合わせたら、わお!!!原田芳雄氏がでていました。

クミコさんの歌もさることながら、ぼくは原田さんの歌の大ファンでもあります。

司会者が「俳優さんなのに歌まで…」なんてトンチンカンなことを口走っているものだから、ああこの人たちは聴いたことがないんだなあ、と。

「横浜ホンキートンク・ブルース」をはじめ、かつての熱唱はいまだに輝いています。
びっくりしたのは声の力が全然衰えていないこと。
嬉しくなりました。

歌ったのは美空ひばりの「リンゴ追分」をジャズで。
ジミー・クリフの「Many Rivers to Cross」を日本語で。
もうバツグンのブルース・フィーリング。

バックにはキャロルのリードギターだった「うっちゃん」がいました。いいおじさんになってましたね。

クミコさんは岡林信康の歌をアカペラで。それと「ブラボー」を。
こちらはいつものクミコさん。よかったです。

ぼくにとっての原田芳雄ベストは「 Color Me Right 」
この歌を聴いて何度泣いたかわかりません。
たぶん今聴いてもすぐに泣くという確信があるので「封印」しているぐらいです。



2008年03月12日(水) 私家本でなければできないこと

自分で本づくりをするということは、発注ではとても引き受けてくれないことを格安でやる、というおもしろさがあります。

だからのめり込むと「紙の職人」「紙の工芸職人」に変身する人が多いのです。

今日も「同志」のブログを読んでいたら、

『本づくりは、書くこと、本にすること、読んでもらうことの三つがそろって、かなうのだ』という強い言葉を発見。
画面の前で深く肯くのでした。

もちろん、ただの素人が本を実際に作ってしまう、ということが一番おもしろいことなんだけれど、「箔押し」が多分無理という以外、たいていのことを工夫してやってのけているのが「私家本制作者」です。
みなさん凝っていますよ。

で、ぼくが今回の本づくりのテーマにしたのは読みやすさ。
大手からでている本の中で一番読みやすいと思ったのは江國香織さんのハードカバー。
「泳ぐのに適切でも〜」と「号泣する準備〜」の二冊のレイアウトは、とにかく読みやすく設計されています。
字間、行数、余白の広さ、全部余裕を持ってつくってあります。

これを参考に取り入れてやったところ全ページ数が220ページ。
さらに詩集が32ページ。合体させると、結構な厚さに。
そこで問題なのは本の強度。ページが抜けないように、本が崩れないようにしなければなりません。

紙と接着剤の強いモノを用意していますが…。
ま、とにかくやりましょう。



2008年03月11日(火) さあ、どうする

昨日よりもさらに暖かい一日。
日向はシャツで十分。

さてさて作品集から二つの作品を削除。もう少し時間をかけて書き直すか、ボツに。最終チェックはまだ。

「きらきらひかる」「号泣する準備はできていた」アンソロジー「ただならぬ午睡」を再読。「ただならぬ…」には吉行さんの珍しい短編が収められている。
江國さんがこの作品を選んでくれたおかげでよむことができたもの。

金曜日の連載の原稿を書き終えたのだけれど、とても短い。
こんなに短くていいんだろうか。
しかしこれ以上は長くできない…。

詩集を「街函」と合本にしたら、という提案があった。



2008年03月08日(土) 「ねぎを刻む」に至る一日

作品集のツメの部分にさしかかってきました。
製本用の道具を捜してうろうろしていたら、近くのホームセンターで発見。
その結果、これまで小口の化粧断ちだけ印刷屋さんにお願いしていたんだけれど、その必要もなくなりました。
完全ホームメイド。

一方、作品のダメ出しはとうとう「全編書き直し」がでてきました。
早速書き直し。

今回は二冊同時並行でつくつていて、一方が掌編小説集、もう一方が詩集です。
詩集の方は誰もダメ出しをしません。
すいすい制作中。とてもシンプルなものになります。

ここのところずっとハナの面倒にかまけて、街を見る余裕がまったくないのだけれど、梅が見頃だそうです。天神さんも、御所も。
いまのところ行く余裕はありません。

本はどんどん読んでいて、茂木健一郎さんの本は全部読みました。
現在進行形は印刷製本のテキストが二冊とエッセイが一冊、短編集が一冊、英語のテキストが一冊。

それに追加して、今日から江國香織さんの短編を再読を開始。まず「ねぎを刻む」から。
小説を書き始めた時、一番親しんだ作家さんの一人であるので「原点」といえなくもない、と自分では思っています。
そこに立ち返って確認したいことがあったので。
ノートと万年筆を用意しました。



2008年03月05日(水) She sells seashells by the seashore.

英会話を習った人なら必ずやったであろう定番です。

She sells seashells by the seashore.

英語の重要な発音の多くがこの中にはいっています。

英語漬けをつづけるためには、毎日口に出すのが一番。
今日久しぶりにやってみたら、口の周りの筋肉が錆び付いていました。

何度も何度もやって、ようやく動き出しました。
だんだん歌詞もまともに聴き取れ始めたし…。

sound good.

「街函」は「蛍」まで推敲完了。
もう少し製本に工夫したい。せっかくの私家本なので。




2008年03月04日(火) my life

やっぱり朝は「黄金」です。
書くのも読むのも早朝が一番いいです。

昼頃には強烈な眠気に襲われ、そこでちょっと昼寝。
四時頃から元気になるけれど、やっぱり早く寝る、と。

酒も煙草もやらない。ほとんど繁華街に行かない。
他人から見たらつまらない生活かもね。
ぼくとしてはもっと淡々としたいんですが。



2008年03月03日(月) ローマ字の呪いなのか

英語にマジになっています。
英検二級と三級の古いテキストをもう一度引っ張り出してやりつつ、発音の練習をつづけています。

というのも、中、高、大と習った発音でネイティヴとスムーズに会話ができないからです。
だからテキストの発音が信用できないんですよ。

なんとか通じる時もあるんですが、それはたいてい洋楽のCDで憶えたような言い回しを使った時。

学校で習った発音では苦しんでいます。
a little bit なんかは「アリルウビ」で通じます。
こういう例がほんとに多くて、しゃれになりません。

いったい何年も何年も習ってた英語というのは、あれはなんなんだとおもいます。
単語をいくら覚えたとしても、発音が通じなかったら意味ないですよ。

で、やっぱり小学校で憶えたヘボン式ローマ字がくせものだと思うのですよ。あの記憶が、英語の発音を無意識から邪魔してる気がします。
ローマ字というのは、外国人が日本語を習う時に有効かもしれないけれど、日本人が英語習う時に足をひっぱっていませんかね。
英語独特の発声の微妙さを見失う、というか。

というわけで「逆説カタカナ英語」に挑戦しています。
有名なところではジョン万次郎の「掘った芋いじるな」がwhat time is it nowになるという話。
嘘だと思った人が使ったら通じたという…。

それから例えば、
戦後、進駐アメリカ軍の兵士といちばん英語が通じたのは軍関係の下働きをしていたおばちゃんたちだったとききました。
学歴はまったく関係ありません。毎日英語を聞いていたからです。

たぶん今でもTicketを「チケット」と発音しても多分通じません。
おばちゃんたちは「テケツ」「テケツ」と発音して、それがアメリカ人に通じていたといいます。
だいたい英語にはっきりとした促音はありませんからね。(「ッ」とか)

そういう人たちの英語が通じて、一生懸命勉強した人間の英語がまるっきり通じない。
ぼくよりはるかに成績が良くて、単語も構文もばっちりだった人たちの「英語」が全然通じない。これはいったいどういうことなんですかね。

ぼくらの世代の英語教育は失敗しているとおもいます。
特に発音。
で、いっそのこと「通じるカタカナ」で憶えた方がいいんじゃないのか、と考えました。

今の若い人たちはぼくらよりもはるかにいい教育を受けているから、英語がぺらぺらの人が多いと思うけれど、おじさんおばさんは大変です。

実はしゃかりきになっている理由があるのです。
イギリスから義弟の来日が迫っているのですよ。
去年は権太呂で鍋焼きうどんをつっつきながらぽつぽつとしゃべったけれど、もっとスムーズにしゃべりたくて。
向こうは必死になって日本語の勉強をしているらしいから、ぼくも頑張らなければ。

かっこなんてどうでもいいんです。通じさえすれば。




 



2008年03月02日(日) 「街函」の試作品




三番目の作品集になる「街函」の試作品ができました。
画像がそうです。

今回はいよいよ「糊付け製本」です。
紙を揃え、「本の背中」に木工ボンドを直接つけて染み渡らせ、広辞苑で重しをして一晩。そこに別につくっておいた表紙を貼り合わせます。

前回の「音函」よりもずっと本らしい体裁になりました。
これから「あとがき」ほをつけ、ページを整頓してできあがりです。

あとは紙の選び方です。「本文紙」をどうするか。画像の紙は一般的なPP用紙。インクジェットの両面印刷にするかどうか。
表紙はPC用の写真用光沢紙を使っていますが、他にも和紙を使うアイデアもあり、検討中です。

内容に関してはブログにアップしたモノを手直ししたモノがすべてです。
そして、一番怖ろしい我が畏友にして驚異の読書フリーク「文庫本主義者」の「検閲」を今、受けているところです。
意外や意外、今のところ「音函」よりはるかに良い評価。
特に「こうつと、こうつと」は絶賛されました。

いつももっとまじめに読め、あんたの選ぶ本はおかしい、もっとお金になるもんを書け、あんたはほんとにあほやね、認知症とちゃうか、などと罵詈雑言を浴びているのですが、
思いもよらぬ反応に、脳に報酬系のホルモンが放出された模様。
やる気が出ますね。
しかしまだ中途。油断すまいぞ。…。



2008年03月01日(土) 制作

午前中からプリンターが大活躍しています。
あたらしい本、「街函」を印刷していました。試し刷りです。
前回の「音函」よりもページ数が増え、本文だけで210ページになりました。したがって、「音函」の時のように単純な中綴じでは対処できません。字をちいさくしようと思っています。

それよりなにより「本」にして初めて見えてくる「粗」。せっせと推敲しています。

Wordは相変わらず何かと評判が悪いんですが、本の体裁まで作れるソフトではあるのです。
「Wordで本づくり」というようなページがネット上にかつては結構あったんですが、そのまま書籍になっているものもあるようですね。

さてテキストを参照しながら作業を進めていくのですが、古いテキストだとWord2003に対応していないものも多いのです。

今回はWord98に対応している古いテキストの使える部分を参考にしながらプリントアウトしてみました。
ついでに2003とAdobeのPageMakerに対応したテキストを発注。

久しぶりに見る我が本を手にとって、画面に向かって書いていた時の「何か」がすっぽり抜け落ちて、まともにリアルな字面と対面しました。
前回、前々回同様に思ったのは「こんなモノなのかなあ」という感想。

紙の上に印刷したとたんに頼りなく見えてくるのですよ。


 < 過去  INDEX  未来 >


にしはら ただし [MAIL] [HOMEPAGE]