散歩主義

2007年07月29日(日) 選挙の日

今日は大阪からお客様が来る予定だったので、朝の用事を済ませてすぐに投票に行きました。

たいてい、どの選挙でも朝一番にいくので、町内でも早いほうなんですけれど、今日は妙に混雑していたので、ひょっとしたら投票率が高いのかも、と思ったのですが、前回と同じぐらいとのことで、少し意外に感じています。

確かに期日前投票が史上最高を記録するなど、盛り上がっているの様子はみえていたんですが
結局、いつも選挙に行く人、あるいは意識の高い人が、いつも以上にきっちりいって、たまたまいった人は、やっぱり、たまたまだったんだなと理解しています。

年金問題が最大の争点のようだったけれど、ぼくの中ではそれにプラスして環境と憲法の問題が重要な判断材料でした。

テレビの開票速報みてますけど、当確情報を間違えて謝る局が出てきそうな気がします。
大勢が決まったようなので、スイッチを切りました。

今日は文庫本主義者から詩がマニアックになっている、と批判され、
ついでに奨められた1200万画素のデジカメを購入。
なにおしているのかよくわかりません。

今読んでいる詩人/作家はレイモンド・カーヴァーです。
村上春樹翻訳ライブラリーのものをずっと読んでいます。




2007年07月26日(木) フリクションボールペン




今では子供たちにとって当たり前のアイテム。最近まで、どの文房具売り場でも売り切れ状態だったフリクションボールペンをやっと手に入れました。

パイロット製。水性ゲルインク。ペンのお尻で字をこするとあらあら不思議字が消えます。
消しゴムかすも出ません。

60℃の熱で消えるインクなので、暑いとこにはおいてはいけません。
手紙を書くときに便利。宛名書きにも。修正液要らず。

論文試験には駄目だろうな。こすったら消えるから。
ただ下書きにはいいね。
原稿書くのにもいいかも。
とりあえず手紙から使おうとおもいます。

明日の朝はメルマガの配送日。
今回こそ駄目かと思いましたが、普段よりも長いものになりました。
配送予約を済ませたたところです。

メルマガに書くぶん、日々の日記がとびとびになりがちです。
足許のことを書いているメルマガなので、興味のある方はご購読ください。
ホームページのトップから申し込めます。



2007年07月23日(月) 「ゴッホの靴」を是非…。


この本はぼくにとって、忘れがたい作品になりました。
坂本美智子さんの「ゴッホの靴」です。2007年5月に文庫化されました。
まぎれもなくぼくにとっての「名作」になりました。

実はこの感想文のメモを書いている段階で、上記の書き出しのあと、この本が「新風舎」から出されていることを詳しく書いていました。
ぼくがこの本に出会うまでを語るべきかどうか、と躊躇したのですが、やはり書いておきます。

 「職業作家」としてデヴューをめざす人たちは、まず「賞」を狙う人がほとんどです。
受賞したからといって、「その後」が保証されているわけではないのですが、少なくとも「めざす人」ではなく、「小説家」ではあります。社会的にも認知されやすい。
(もちろん「私は作家です」といえば、もう「作家」ではあるのですが。)

 賞をとらずとも、投稿を繰り返しながら作家になっていく人もいます。そして人々が作品に注目するもう一つの手段としては「同人誌」があります。
 それでもなお単独で何としても人に読んでもらいたい、世に問いたいという場合、自費出版とインターネットがあります。

 「新風舎」は自費出版の大手として有名です。そして現在、訴訟を起こされ係争中です。新風舎の売り文句は「あなたの本を出版します」。そして係争中のものは「責任を持って本を売る」「全国の書店に本を置く」という約束を反故にされた、というところから来ているようです。

 本人が原稿だけ渡しているのであれば、こんな問題は起きないでしょう。共同出版という形でかなりのお金を新風舎に渡しているが故に、問題が起きているのだとおもいます。

 「新風舎出版大賞」というコンペテイションが頻繁に開催され、大賞受賞作は出版を約束されるようです。その後もお金がかかるのかどうか、大賞を取ったことが無いので分かりませんが、新風舎の本の多くは「共同出版」であると理解しています。(ぼくのところにも案内がよく来ますから。)つまり著者も出版に関する費用を負担しているのです。
 「巨額にはなりますが、お金を出せば本を作りますよ」というそれだけの呼びかけならば、これほどのトラブルは起きないと思うのですが。
 それだけの負担をしても本を作りたい、という人たちは確実にいるのですから。

「ゴッホの靴」はある回の新風舎出版大賞の井狩春男賞を受賞しました。その時の大賞受賞者はたしか中学生だったとおもいます。編集者や審査員の誰もが落選としたこの短編集を強く推し、本にしたのは井狩春男さんでした。
 「この端正な文章を落としてはいけない」と直感されたようです。
 受賞されたとき、坂本さんは70歳前後だったのではないでしょうか。新風舎から送られてきたDMでそのあたりのことを知ったときから、この本はいつか読みたいと、ずっと念願してきたのです。
 
 当時はとにかく若い人が受賞する文学賞が続発していて、そんなかで70歳を越える方の受賞はそれだけで異色であり、また素晴らしいことに思えたのです。
 井狩さんを唸らせたその文章を是非読みたいと思いました。
 だけれども皮肉なことにどの書店にいっても売っていませんでした。

 なので今回、家の近所の、そんなに品揃えのよろしくない本屋でこの文庫を発見したときは驚きました。これはたぶん…「作品の力」なのでしょうね。

 そして読みました。
 とてもいい短編集でした。書かれているのは老人など社会的弱者ばかりです。
 坂本さんは1932年生まれ。御高齢でありながら現在でも現役のケア・マネージャーです。介護の仕事を通じての経験が、すべての題材になっているのでしょう。
 滋味溢れる、手で彫り込んだような作品ばかりです。
 老いを考え、死を考えました。生きることを考えました。
大袈裟なところも、大仰なところも、激越な叫びも主張もありません。しかし、じいっと心にしみいってくる作品たちでした。

 井狩さんが絶賛した文章も素晴らしかった。うまいです。余分なデコレーションがありません。とにかく感じたのは
 『文章に齟齬(そご)がないこと』です。
 素っ頓狂なこと、ぶっ飛んでいること、それがない、というのではありません。
 『齟齬がない』のです。
 この感覚は本を読んでいる方や、自らも何かを書いておられる方なら分かると思いますが。『正確に書かれている』という言い方が近いかもしれません。

 個別の作品は
1 「ゴッホの靴」
  自分のミスで登山仲間を死なせてしまった(実際はそうではない)と思い悩み、ホームレスになった男の末期を描く。

2 「隧道」
 人生の最後を生きていく老婦人たちの様々な姿。その人たちの最後の光がみえました。 
3 「桜 蘂降る」
 熟年離婚を決意し、故郷へ戻った私。死んだ母を想い、狂い自殺した幼なじみの父を想い、その幼なじみに出会い。そして老桜を見ながら離婚していくふたり。
 さまざまな人生が淡々と語られます。

4 「ナビケーター」
 脊椎損傷で下半身不随になった人の、むずしいサポートを通じて人生を考える。考えながら多摩川の源流へ行こうとする。無謀な行動の果てに結局帰るのだけれど、
重要な台詞があります。
『私はまだ生きている途上で、何もやっていない、何も終わらせていない。でも一所懸命、ここまできた。
 ほとんどの人にとって、そうやって終わりを迎えることが生きるということなのだ』
 
5 「エゴの花」
 脳梗塞で倒れた飼い主に寄り添う犬。やがて飼い主は亡くなり、残された奥さんが「得手勝亭」というご飯やさんをする。
犬のところへ遊びに来るダウン症の友人の孫、自分の娘、そして優しい犬。そして犬が亡くなっていく。
 それでなくても「犬もの」に弱いぼくは、わあわあと泣きました。

6 「馬革の鞄」
 鞄一つで押しかけてきた、俳句教室の70歳を越えた仲間。数日だけれども彼女は家に居着いてしまう。図々しいとおもいながらも、逆に彼女によって生活が、交流が、彼女自身が活性化し開かれていきます。
 そして彼女の死。まるで「死にじまい」のように、単独者としてバトンを渡したような形になる。バトンは「鞄」です。

 下手をすると真っ暗な、救いようのないテーマであるけれど、むしろ感じるのは光であり、清々しさでした。そして顔を上げて生きていくということでした。
 自らを、とにかく自らをきちんと生きる。
 それが人生。それで十分なのだとおもえたのです。

 また、ぼくにとっては考えているテーマがとてもよく似ていたので驚きました。準備している長い小説へのヒントもずいぶんありました。
 そしてなにより書くことへの励ましにもなりました。
 どこかで躓いても、いろんなところから切り離されても、誰からも見えなくなっても、書くことは続けられるのだし、それでいいのだ、とおもいます。

 人に読んでほしくなったらネットがあるし、そもそも坂本さんは「この出版社」を選んだのですから。
 「作品の力」がすべてなのだとおもいます。

●「ゴッホの靴」坂本美智子(新風舎文庫)657円+税
手にとってみてください。




2007年07月21日(土) 「葛の動詞」

梅雨明けが、例年より遅い。
祇園祭の頃の京都は、もっと暑いのだが、曇天が続いた。

メルマガにも書いたけれど、今年は笹の花が咲いた。
笹の花なんてまず見ることがないくらい珍しいこと。
昔から、その年は飢饉になる、という言い伝えがあることを、ぼくでも知っている。

はたして日照不足が懸念されはじめた。
ちょうど米の花が咲く時分なのだ。
このままではたぶん凶作になるのではないか。

おまけに新潟で地震があったけれど、他でも起きる可能性はあるし
台風は海水温が高いからか、巨大化している。
なにかがおかしい。

今日は婦人公論の8/7号がすでに書店に並んでいたので
投稿している詩のページを見ました。
今回は佳作でした。

「葛の動詞」という詩です。
「葛の動詞」はこちら


詩のリンク先、In Paradismには過去のメルマガに書いた畸編小説をアップ中でもあります。
よろしければそちらもどうぞ。



2007年07月19日(木) 旋回




美輪明宏さんがテレビで(たぶん「メントレG」)実演なさっていた「チベット体操の「旋回」をやるのが癖になっています。

やり方は至って簡単。直立し、腕を水平にあげ、息を吐きながら、右回りに奇数回その場でくるくるまわるのです。
「人間竹コプター」みたいなかんじ。

「右回り奇数回」というのが大事。21回を越えてはいけません。

効果としてはアンチエイジング。背中や腹を引き締める効果。
運動学の先生もそういう効果は期待できる、と。
ぼくがやりだしたのは、科学的にはうさんくさいといわれている効果を求めてでした。(東洋医学の人は効果があるといっています)

それは体内に停滞しているエネルギーを回転によって渦のように体内に流す作用と、それによって内分泌腺の働きが高まりホルモン分泌が活発化する、というもの。
うん、十分いかがわしい。だけどイメージは美しい。

だけど正直言うと、くるくるくる回って停まりまする。すると、うわーーんと目が回ります。あの感覚の中毒になっているような気がします。
気分が変わることは確かだし…。

チベット体操には他にも5つの体操があるそうなのだけれど、いまのところこの「旋回」だけをやっています。

まあそれもこれも少しでも体調がよくなれば、と願ってのこと。
よくなれー、と念じながらくるくる回り、今週も何とかメルマガを書きました。

取材に動くことができず、まったく身の回りのことだけ。
勢いね畸編小説に力が入りました。

文庫本主義者から、メルマガが負担になって本来書くべきものがおろそかになっていないか、と苦言を呈されました。
しかし、ある程度の「縛り」の中でこそ、脳は最大に活動する、という高次脳障害の治療とリハビリに取り組んでいるお医者さんからの健常者への提言を個人的に取り入れているので、このメルマガ制作の作業は続けた方がいいように思えます。

まあそれも程度の問題で、いよいよ時間が無くなったらその時はそこまで、と腹をくくっています。

それでもできるかぎり続けたいので、床で「旋回」するのでする。
くるくるくるくるー。
ほとんど狂人かも。

ちなみにだいたい一度に五回まわっています。それを一日の中で何回か。




2007年07月15日(日) 詩よ。

台風が太平洋岸を舐めるように進んだため、京都はさいわいなことに、さしたる被害もなかったようだ。
午後には吹き戻しの風が、むしろ湿気を吹き飛ばすほどに気持がよかった。

書くほうはあまり進んでいない。
しかし幸いなことに、毎月、楽しみにしている京都新聞の「詩歌の本棚」詩集編が読めた。河津聖恵さんが書いておられる新刊詩集の紹介である。

以前にもこの日記に書いたけれど、紹介をしつつ、河津さんの詩に対する考え方が書かれていて、それがいつもぼくを奮い立たせてくれる。
詩を書く、ということへの何よりの励ましとなるのだ。

抜粋して、覚え書きとして残しておこうと思う。


抜粋1
『詩は始めるものではなく、ある日ふいに始まるものだ。
いや、それは日々、すでに始まっている。
クラシックで主旋律の前に前奏があるように。
能において、幕の向こうで登場人物がすでに見えない演技をしているように。
詩人は、苦しくともゆたかに日常を生きつつ、詩という主旋律、
ハレの時間が始まる一瞬を忍耐づよく待っているのだ』

抜粋2
『私たちがこの一瞬を生きることができるのは、それが別の、未来をも越えた、より深い一瞬へ繋がるからだ。
詩人は誰も聴かない前奏曲、誰も見ない舞台を生きる。
世界が星座のごとく調律され、たとえようもない未知の弦が、
おのずからふるえるそのときまで』



2007年07月11日(水) あるがままに




ここのところ家のものからいわれる言葉は、「またメルマガのこと考えてるの」というもの。
これはよくないです。
ネットのことでこんなふうに思わせてちゃ駄目だ、とおもいます。
おまけに「追いまくられてない?」とまでいわれては、タチが悪いです。

とにかく「老いと病気」に対処するのが、生活の、何よりの優先事項になっているのだから、そこに響くようなことでは駄目。

小説や詩を書くことが、そのことに対抗するようにあるのではなくて、その中から生まれてくるようでなければ。
やはりあかんのんですよ。

取材のための外出もほとんど諦めた方がいい状態です。
だから、メルマガを止めます、ということではなくて、あるがままの自分なりの組み立て方で続けていこう、と。

メルマガに描いている畸編小説。
今回はトルーマン・カポーティーの「夜の樹」を読んでから書き出しました。あの文章の「手触り」を思い出しながら、です。

記事の話題は花のことと祇園祭のこと。
画像は少なく、いまのところ動画もありません。
何か工夫できるかな。

ここ二日ほど、音楽は押尾コータローさんのギターを集中的に聴いています。
「歌う」ギター。アグレッシヴなアコースティック・ギター。
ぼくにとって、その音楽を聴くと何か言葉やイメージがこみ上げてくるアーティストの一人です。
一番よく聴くのは、ちょっと古いけれどアルバム「Love Strings」です。
オリジナルのバラードがとても気に入ってます。
ジャケットの画も好きです。



2007年07月09日(月) 大阪モラトリアムブルース

NHK−High Visionで「大阪モラトリアムブルース」をみた。
ドキュメンタリー。

「モラトリアム」というタイトルがしめすように、何者かになろうとしている若い連中が紹介されていた。
阿倍野の歩道橋で唄う男、O−CATS前のストリート・ダンサーたち、淀川河川敷で「青空ギャラリー」として、廃品でオブジェを作り続ける二人の男、豊中のプロボクサーをめざす女性、15人でいっぱいになるジャズ喫茶で週に何度か唄っている女性、スナップ写真家をめざす鶴橋在住のもと修行僧のカメラマン、心斎橋の路上で注文に応じて色紙に言葉を書き続ける「ロックな」詩人、ダンスゲーム機に現れるマニア系ダンサー…。

全員、アルバイトかフリーターである。
そして全編を流れるブルースのスタンダードナンバーを弾きまくっている女の子は10代の高校生だったか中学生だったか…。

久しぶりに心が熱くなった。
みんな若くて、一生懸命やりたいことをやって、今を精一杯生きていた。
妙に力んでないし。

ぼくはもう若くない。
だけど大事なことはそんなに変わるものじゃない。
どんなふうに生きることだってできるんだ。

ジャズ喫茶で歌っている女の子の目標はオリジナル・ソングを唄うシンガーになること。
彼女のオリジナルソングがながれていたのだけれども、とてもよかった。
きっと願いは叶うからあきらめないで、というメッセージソングだった。

someone who watch over you

祈るような声がまだ耳に残っている。



2007年07月05日(木) Out/Odani Misako

「ロックの」ピアノ・トリオ。
それも日本の、という条件を付けるとほとんどいないんじゃないかな。

「ピアノ・トリオ」であることと「ロック」であることが同じくらいにとても重要に思える、「小谷美沙子トリオ」である。

吸い上げている音楽のフィールドは、たぶんとても広く、何かに限定はできないとおもうけれど、
「音楽の立ち姿」というものがあるとしたら、バリバリのロックである。

京都府宮津市出身で、もう10年の音楽活動のキャリアがある。それをまとめたベスト盤もとてもいいけれど、
最新盤の「OUT」はその疾走感といい、切実さといい、迫ってくるものがあった。とてもいい。

強烈にドライヴするベースとタイトなドラムの上にピアノの音が乗っかる、という音楽は瞬間、ナンバー・ガールのように聞こえたり、バンブー茂のように聞こえたりもする。
だけど間違いなく小谷美沙子の音楽なのだ。

詞は望みと否定の中を揺れながら、不安を隠さない。
しかし今を諦めない。他者との繋がりを信じ続ける。
「〜たい」という望みのかたちで声がなんども伸びていく。

最後の「東京」という曲は、表現者になるべく東京に出て行った地方出身の若者たちの耳に届いてほしい曲だとおもった。




2007年07月01日(日)

ここ数日間、風邪のために裏庭を放っておいたので、今日手入れをした。

バラの花がらを摘み取り、そのほかの植物の掃除をする。枝の細かな剪定はまた後日。

表の庭にまわる。
オクラの花が一日であっさりと散った。一日花なのだ。もう下から、やがて食卓にのぼるであろう小さな実が姿を現していた。

オクラの蕾は次々とできている。花はこれからしょっちゅう見ることができるだろう。

再び裏庭へ。
実はぼくは少々荒れた庭が好きだ。荒れ果てた庭を子細に検討し観察するのも大好きである。
壊れていく植物、腐敗し乾燥した植物をそれほど汚いものとは思えないのだ。それを観察するのも片づけるのも両方とも、数ある作業の中でも好きなほうである。

そして、必ずそこには自らの力で芽生え、成長をはじめている植物がある。それがあるから好きなのかもしれない。

人が植えたモノとは明らかに雰囲気が違う。
人が世話をかけたモノの方が色つやはいいんだけれども、自生しているモノには独特のしなやかさと緊張感がある。

そこでしか発芽できないというポイントから、まっすぐに成長のプロセスを確実にこなしてきているのだ。
外から環境を検討すれば明らかにあるレベル以上は無理だと分かるのだけれど、植物はそういう考え方をしない。
そういう未来を描かない。
その都度その都度の最善手を繰り出していく。花も実もその結果でしかない。

そういう姿勢が茎や芽の先端に感じられて、おもわず見入ってしまうのだ。

ところでオクラだけれど、必ず一つの穴に四粒ぐらいの種を一緒に蒔く。
四つとも発芽し成長するけれど、残すのは一本だけ。農家の方も同じやり方をすると思う。
そんなことをするんだったら最初から一粒だけでいいじゃないかと思うのだけど、一つだと発芽してもとても弱い。下手すると枯れてしまう。

人の手で間引くのだけれど、その時、他の粒がよってたかって一本を強くしているように見えるから不思議である。


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