お昼ご飯を食べながら、「笑っていいとも」を見ていました。 テレフォンのゲストは加藤和彦氏。 ミカバンドよりも、ソロアルバムが好きでした。 今でも時折聴いています。
スタイリッシュな加藤氏のこと。 まだ大学生の頃だったかな、たまたま読んだ音楽雑誌に、とてつもない空腹時にもしポケットに数百円しかなかったらなにを食べるか、というテーマでコラムで書いておられて、どんなに小さくてもそのお金で買える一番おいしいケーキを買う、というのが加藤氏の答え。 そのことをいまだに覚えていて、そのエピソードが加藤氏の本質を言い当てているようにいまだに思っています。
さて番組では最近、楽曲の制作に忙しい、との発言からタモリ氏と新しいものをひねり出す話を短く。 昔はコピーから入っていけたけれど、今は全然違う、と。
で、楽曲のアイデアなりメロディーについては、やっぱり降臨するのを待つ、と。 そのことは文学でもよくいうことだけれど、 「だけど思いつきはダメだね」とさらり。
加藤氏は一時、歩いていたり、日常の何かの拍子に音楽がはっと閃くから、携帯しているレコーダーに保存していたことがあるとのこと。 だけどあとで聴くと全然ダメ。だからそれは止めたそうなのだけれど、その文脈から「思いつきはダメだ」という言葉がでてきたのです。
その言葉を引き継いで、さらにいろいろと音を重ねたりいじったりしている内に何かが現れてくる。「つまり降臨するんですよね」という言葉が呟くようにでてきていました。
案外、思いつきと降臨は同じように考えがちなのだけれど、それは違うようにおもいます。 現代詩の作法で言えば吉岡実さんがエッセイで語っておられました。 ふっと浮かんだ言葉は全部捨てる、と。それでもしぶとく残る言葉があればそこではじめてその言葉に向き合う、と。
小説の作法で言えば吉行淳之介さんが、自分の中の抒情詩人を扼殺する、と。それでもなお表出してくるものを表現として掬い上げるという意味のことを書いておられた。
大きなテーマ。たぶんそれは生き方であって、そこから言葉や音に向き合い、出してみて、それを削ったり加工したりしているうちに、 「降りてくる」。 それがなにか。たぶん分からないし、語れないこと。
いちど表してみること。そこからしか始まらない。 自己を消してみること。それは幻なのかもしれないから。 そんなことを考えていたら「格闘」という言葉が浮かんできました。
今週は病院がよいが忙しい。先週末ぐらいからそうなのだが、避けることも逃げることもできない。 自分が健康なことだけが頼りである。
朝、浅い眠りのまま起きだして、とにかく珈琲を淹れる。 半分寝たままノートを出して、ある小説の三行だけ書き写す。 それで目が醒めて、落ち着く。
今書き写しているのは、藤沢周平である。「気」のために書いてるから、終わりを想定していない。
水上勉さんが短編小説の勉強をしているのなら、向田邦子「思い出トランプ」から二編ほどを書き写してみてはどうか、と「解説」で提案されているので もちろんそれも並行して書く予定だ。
呼吸の仕方を学ぶような気持で写そうとおもう。
毎週金曜日は午前五時のメルマガ配信と、その日の内に畸編小説を一つ、ブログにアップします。 この習慣がしばらく続いています。
今回の小説はこちら。
ずっとアメブロにアップしています。 このアメブロの解析はとても詳しくて、参考になります。 アクセスがずっと多いのが「葵の花」という作品で、あたらしい小説や詩の作品よりも常に多いアクセスです。
その次くらいに新しいアップ作品です。
ホームページ経由で来られる方、「散歩主義」から来られる方、MIXIから来られる方など様々です。
読みに来てくださっている、ということが、どれだけ大きな支えになっているか。
いつも、ありがとうございます。
メルマガを書き終え、zero colaを飲みながら、向田邦子さんの「思い出トランプ」を読む。
短い小説が詰まったこの本を、疲れては読み、疲れては読みしながら、なんとか今週も畸編小説がかけた。
向田さんの本を読むたびに、なんの理屈もなく、うまい、と唸らされる。 「これぞプロの仕事」と、なんだか腕のいい江戸職人の技を堪能しているような気になる。
実は我が家の「積ん読」で一番多いのが向田さんの本である。 そろそろぼくも本に向き合える頃合いになってきたのかな。
夕方から落雷を伴って激しい雨が降りました。 まだ少し降っています。
植物たちには嬉しい雨。 しかし老犬ハナにはやはり雷の刺激が強かったようで、ずっと震えていました。 若い頃はまったく平気だったんですが。
だから、稲妻が走り、激しい音が響いているあいだずっと抱いていました。 人がいてやらないと。
ところで。 婦人公論9/7号で詩「あいたい」が佳作になりました。 詩はこちらで読めます。 きっかけになったのは、電話の中の、雷の音でした。
とにかく説明の部分をできる限り削いだので、ぎりぎり骨組みだけが残りました。
さて、と。 メルマガの畸編小説に集中しなくては。
猛烈な暑さは収まらない。
昨日に続き「めぐらし屋」を読む。遅れて「遊戯」、時々「雨はコーラがのめない」を読む。
松浦寿輝さんの文庫を三冊発注。 いったいいつ読むんだ。
詩のメモが溜まりつつある。 そろそろ作品に仕上げないと…。投稿が1ヵ月ほどあいてしまった。
メルマガの小説をどうはじめるか、考える。 今日は地蔵盆。路地の奧のお地蔵さん周りで設営と撤収を手伝う。
いったいいつ書くんだ。
●昨日の夕方、鰯雲を見た。 と、いうことはそろそろ秋の入口に来ていることは確かなようだ。 そんなことが信じられないぐらいに暑いけれども。
●今「めぐらし屋」を読んでいる。堀江敏幸さんの本を知っていった過程は、翻訳作品、エッセイ、小説の順なのだけれど 今は小説ばかりよんでいる。次はエッセイも読んでみようとおもう。
だいたい、堀江さんの文章のうまさに最初に感服したのは暮らしの手帖に書かれていたエッセイだったのだ。
●ところで 我が家のオクラはどれも立派に成長した。今では毎朝、4本ずつ収穫している。納豆とあえたり、味噌汁に入れたり。
来年も植えようと思う。それとゴーヤに挑戦したい。 和知のあたりでは立派なゴーヤが収穫されているし、市内でもできるはずだ。
立命館大学の屋上から大文字をみていました。 夏の夜を焦がして送り火がもえていました。
これが終わるともう夏も終わっていくなあ、と思うのですが 今年ばかりはそうはいかないようです。
とにかく暑い!!
2007年08月14日(火) |
少し墨が流れたぐらいで |
昨晩、雨が降ったようだけれど、まったく気がつかなかった。 夏空は安定し続けているわけではなくて、何度も空を墨が流れるように低い雲が現れた。 だけど結局は熱風に吹き飛ばされて、夕立すらこない。
畸編小説を書き上げる。 今週は「五山の送り火」がある。メルマガの記事も、その画像が中心になるだろう。 お盆で、他に書くこともほとんどない。
小説が先に書けたのは久しぶりのこと。いつも最後までかかっているのが小説である。
ネットで力を込めているのはメルマガと、もう一つポッドキャスティングがある。つまりヴォイスブログも少しずつ更新を再開した。 で、すでにやっているけれども、朗読をするに当たって著作権の問題がどうなっているのかいろいろと調べてみた。
先達はたくさんおられて、弁護士の方の解釈等も参考にした。 その結果、公開に当たって、無料、無報酬で個人的なモノであれば、ほとんど問題はないないように考えられる。
しかしブログでの朗読は、もう一種の表現行為として高いレベルに到達している方が多く、今日もサン・テ・グジュペリについての素晴らしい朗読を聞いていた。もちろん無料である。 だけどそういう方たちが訴えられたという話はきかない。
ただ、こんごおそらく有料化する方向へ向かうとも思われ、(実際、お金を払うだけの価値がある素晴らしい朗読が多い) たぶん問題が顕在化するようにもおもわれる。 そういう方たちと、ただ個人的に朗読を愉しみたい、そしてそれを公開したいという人たちをどう区別するのかという(それはほとんど作品のプレゼンテーションになると思う)問題も出てくるだろう。
著作権が作者没後50年におよぶ、という著作権法の条文を尊重して、古い作家の作品のみにしている、という人も多い。 だけど椎名誠さんの作品を朗読している人もいたし、多くの「朗読者」は新しい作品の朗読をしたがっている。
個人的であれなんであれ全文朗読がまずいのであれば、(そういうふうには法律に明文化されていない)詩集ならそのうちの一編だけとか、小説なら全体の10分の1しか読まないという自己規定を作っている人もいる。
たんなるコピーは「複製」だから、著作権法に引っかかるだろうけれど、 文字から音声へ移し替えることが著作権法に引っかかることになるのかどうか、もう少し勉強してみたい。
朗読が本というメディアに対抗したり侵害を企てたりしているのではなく、むしろ朗読がきっかけで本を買う人がでるのでないかとさえ思えるのだが。
パウロ・コエーリョだとか堀江敏幸さんの本を読めたら気持ちいいだろうな、とずっと考えていた。
2007年08月11日(土) |
ピーク/新世代の日本画展 |
皮肉なことに立秋を過ぎてから、一段と暑さが厳しくなった。 夏空が安定した。
BSの「世界ふれあい街歩き」でみたサンタフェの空みたいだ。 アメリカのサンタフェにはたくさんの画家が移り住んだ、という歴史があって、現在でも画家は多いという。
そのわけは、印象派の多くのフランスの画家たちがもとめた南仏やイタリアのような空の色があるからだ、といわれている。 それはたぶん抜けるような、という形容ではなく、怖いほどくっきりした青、だとおもう。 画面で見た空も、今日の京都の空もそんな色だった。
大丸京都店・六階美術画廊でおこなわれている 「京都若手作家による新世代の日本画展」をみにいった。 同じ企画が去年もあり、七名のメンバーは昨年と同じ。 それだけ期待されている七名なのだ。
メンバーはつぎのとおり 潮由起子、兼若和也、小山美和子、竹林柚宇子、田島周吾、マツダジュンイチ、森竹晴美
もちろん竹林さんの作品を見にいくことが、ほとんど「追っかけ」状態のぼくの主眼ではあったけれど 兼若さん、マツダさんも竹林さんと同じく「グループ尖」で、ずっと作品を見てきているし、他の方たちも去年から見ていて、なんだか懐かしい人たちに会いに行くような気分だった。
最近、印象派の画ばかり見ているから、というわけでもないけれど、とにかく「感じること」に神経を集中した。 画家もまず感じ、それから手が動いていくのだと思うから。
画家が何を感じているのか。それこそがこちらに伝わることだと思う。 世界を、人をどんなふうに差し出してくれるのか、そこに興味がある。
さて、竹林さんの女性像はどうか。 ずいぶん艶っぽくなった。 肩とふくらはぎが「女」、だった。
「透明感」はいつもあるのだけれど、肖像や身体の向こうまで透けるような感じではなくて、 じっと何かを鎮めた(沈めた)ような透明感を感じた。
針、指、糸、眼、それぞれの先に何かがある。 籠もっている何かがある。まるで小さな渦のような。 そのみえない何かを想像することが楽しい。
これからも頑張ってください。
●「京都若手作家による新世代の日本画展」 大丸京都店六階美術画廊 午前10時から午後八時まで。
●明日12日は午後三時からギャラリートークが行われます。
蒸し暑い一日だった。 終日風は強かったけれど、夜に入っていや増してきたように思える。
今週、若い友人が亡くなった。 若い人の死は辛い。
メルマガに書いている畸編小説も自然とその流れで書いていた。 書いてしまっていいのか。 ただ彼の記憶のために書いた気がしている。
キース・ジャレットのMelody at night with youをずっと聴いていた。 こんなに優しいキースの作品は、ぼくにとっては他にない。特にこんな状態の中では。
メルマガの畸編小説をBlog In Parsdism に遅れて掲載しているのだけれど 今週は「ディーゼル」をアップした。 メルマガとは文言を少し変えている。
明日は台風が来る。 詩を書く仲間の住んでいるあたりに、今、いるようだ。心配である。 何事もなければよいのだけれど。
現代詩手帖8月号と詩学.2007.7/8号のふたつの詩誌の投稿作品の欄にに中村梨々さんの詩が取り上げられた。 複数いる選者の方が作品を選んでおられる。
詩に関する言及、分析はそれぞれの詩誌に詳しく、それも興味深い。 ぼくがこの方の詩を読みおえていつも感じるのは、こんなに言葉は自由なんだなあ、ということ。ここまでいけるんだな、と。 知らず知らずのうちに自分の感じる精神の流れに堰をつくったり、穴に流し込んでしまうところがぼくにはあって、それを壊しながら詩を書こうという気持と整合性を持たさなければ、という気持とのふたつがいつもせめぎ合っている。 だから中村さんのような詩に接すると、自由な言葉遣いがいつも羨ましいし、読んでいて自らが開かれていく感覚にもなる。 そんなふうに読ませてもらってきた。
感じることが感じることを呼び起こすような詩。起ち上がってくる詩の姿が水のように思える。自在で、変幻で、言葉の一つ一つが、その扉を開かれている詩。 水際立っている。つまり「いきもの」
ネットで詩を発表しつつ、お互い声を掛け合っては婦人公論に投稿をしてきた方なのだけれど、いよいよ「その人らしさ」が際立ってきたなと、感じた。 むろん「ぼくはぼくで」ということでもあるのだけれど。
詩の豊かさ、言葉の豊かさが、やわらかく溢れていくような彼女に比べ、ぼくは植物や石や金属に近づいていくような気がしている。 中村さんのような「やわらかさ」で、ぼくは詩を書けないとおもう。ぼくはモノの精神に触れていくことをテーマとしていく以外に道はないように気づかされたのだった。
作品はいくつか紹介されているけれど 現代詩手帖「空きカン、」が一番気に入っている。切なくて、言葉がおもしろくて。イメージの流れとして読んでもとてもおもしろかった。
●「現代詩手帖」で取り上げられた作品 「初夏」「空きカン、」 ●「詩学」で取り上げられた作品 「はちみつとはちみつでないものをつなぐ」 「あたしの左足は逃げ出したのだとおもう」
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