散歩主義

2006年12月29日(金) あらためて「倚りかからず」

おとといの気温からは想像もつかないほど冷え込んだ。
日の出前、ハナと散歩に出たときは、ただ冷たいばかりだったけれど
あかるくなるにつれて黒い霞のような雲がそらにかかっているのが分かった。
来るぞ来るぞと思っていたら、案の定7時過ぎ頃から雪が降り始めた。

ベタ雪で、断続的に激しく降る割にはなかなか積もらず、午後に青空が出た頃には跡形もなくなっていた。

今日はそんな日。

雪の中、正月休みのあいだの珈琲を買いに行き、二、三の用事を済ませた後、帰宅し、机に向かって茨木のり子さんの詩集を読む。

茨木さんは今年亡くなったのだった。

特に詩集「倚りかからず」を読んだ。静かだけれど凛としているる詩たち。
それは詩人の姿勢の確かさもあらわしていて
迷ったときは必ずここに立ち返ろう、と決めた。




 



2006年12月27日(水) モーツァルト/「です・ます」

今年も終わりに近くなって、やはりモーツァルトを聞いています。
今年はNHKでずっと「毎日モーツァルト」という番組をやっていたので
かなりモーツァルトに親しくなりました。
これまではなんといってもバッハでしたから。

ずっとモーツァルトの作品を聞いていると、死が近づくにつれて作品の「純度」が高くなっているように感じます。
晩年の歌曲や「魔笛」。そして「レクイエム」。
特に歌曲の静謐な美しさにひかれます。
心や気分よりももっと深いところに響いてくるような気がします。


今年最後のメルマガを書いていて
「です・ます」調になろうとしています。
最終的にどうなるかはわかりません。
自然に書ければ、とおもったらそうなった、
という程度ですが。

それにしても気温の変化が酷いです。
体調がおかしくなりそう。
風邪をひきそうです。



2006年12月25日(月) 「誰かが書かねばならない小説」とは

私が詩を投稿している婦人公論の、選者は詩人の井坂洋子さんなのですが、
詩以外で井坂さんが小説の解説をされている文章を時々読みます。
たいてい文庫本の解説か新聞の書評です。

日曜日の京都新聞「読書欄」、新刊紹介のところで久しぶりに読むことができました。
取り上げられていたのは村田喜代子「鯉浄土」で、私は未読です。

井坂さんの紹介を読んでいるうちに、これは読まねばと決めたのですが、気になった言葉がありました。
それは
『これは誰かが書かなければならなかった小説だと感じた』。

「誰かが望んでいるであろうものを書く」あるいは「自分が書きたいように書く」のどちらとも違うニュアンスに立ち止まってしまいました。

「鯉浄土」は9遍からなる短編小説集で、そのなかの「科学の犬」という短編をことさら取り上げての言葉でした。
もちろん読まなければ何も言えませんが、
「誰かが書かなければならなかった小説」とはどういうものなのでしょう。

作者がそのような構想の下に書いているのでしょうか。
そけとも書きたいように書いたものがたまたま井坂さんにそう感じさせたのか。
いずれにせよ、ずっと詩の選評を読み続けている井坂さんの言葉だけに気になって仕方ありません。

年末に、どうしましょう。



2006年12月23日(土) まだ忙しい。いいや、ずっと…

今日も忙しかった。
ますます忙しくなっていく。
なんとかならないかなあ。

おかげで今日、駅伝だとばかりおもってた。明日なんだよなあ…。
だから明日も忙しい。
道が通れなくなるから。

ひとりで原稿に向かうのは、朝と夜の一瞬のみ。
それでも詩を明日投稿できそうです。
今年最後の投稿。

「今年最後」といっても、ずっと続いていくことだからことさら特別に考えることもない。むしろ考えない方がいい。
来週の金曜日には、メルマガを配信するのだし。
記事も小説も書かなければ。

毎日少しずつ進めています。



2006年12月22日(金) あたたかな冬至

今日は冬至。夜が一番長い。「陰」の極まる日。
と、いうわりにはとても暖かな日だった。
そもそもこの冬、体の芯から凍えた日は何日あっただろう。
年末には寒波が来る、というけれど。

そういえばエルニーニョも久しぶりに報じられていた。オーストラリアが大干ばつだということも。
気候変動は容赦なく進んでいるようだ。

明日は京都市街をランナーが駆け抜ける。
全国高校駅伝だ。
今週は他府県の高校名の入ったジャージ姿を西大路で何度も見た。

普通の月だと今日は婦人公論の詩が発表されるのだけれど、年末と新春の合併号のためか、
短歌と俳句のみの号だった。

メルマガを配信。
次回が今年最後の配信になる。
きちんと書けますように。



2006年12月21日(木) 何故忙しいのか

ここのところ忙しい。
何故だか忙しい。
時間が足りない。足りなくしてはいけないのだけれど。

明日のメルマガの準備はできた。

植栽の冬越しの対策が不完全なので、近々そちらに時間を割きたい。
薔薇が次々と蕾を付けていく。咲くとしてもとてもゆっくりだし、株が弱るおそれがあるので切ってしまおうとおもう。

散歩の時、いつも小さく口笛を吹く。
ずっと「風をあつめて」だったのが、今日気がつくと「ロビンソン」になっていた。



2006年12月20日(水) 去っていく

昨日は大阪の堺からお客様がいらして、なにやかやと遅くなったので日記はお休みしました。
昨日の話題は、やはりというべきか介護の問題。多くの家庭で似たような問題で苦労されています。

特に認知症がからむと大変です。過労から介護する人が先に亡くなることもままあるようですから。

ところで、
青島幸夫さんが亡くなりました。
時代が終わった感慨があります。
誰かの死を訊くたびに
今を懸命に生きること。
そのことを強く感じています。

ストーブの音とジェット機の音が重なり空気が傍らで唸りを上げているように聞こえます。
メルマガの原稿を書き終えました。
これから推敲です。

それから
詩を一つ、投稿します。



2006年12月18日(月) 初雪

一段と冷え込んだ朝、薄い雲に覆われていたのだけれど、それが薄れていくにしたがって、京都を囲む北と西の遠い峰が白く染まって姿を現した。

市内ではほとんど降っていないのだけれど、大原三千院のあたりでは薄く積もったらしい。
明日の朝はさらに冷え込むという。
だけど基本は暖冬。本来、おとといぐらいまでの雨が雪のはずなのだ。

川上弘美「あるようなないような」を読む。時々、小説なのかエッセイなのか分からなくなるけれども、よんでいて愉しい。

メルマガの原稿をノートに書く。

ロックン・ロールの聴きすぎの反動からか、ボサ・ノヴァとブルースを聴く。最近、思わぬ方がクレイジー・ケン・バンドの熱烈なファンであることを知る。あのダンディな方が、と一瞬思ったけれど、ダンディだからこそ…と納得。



2006年12月16日(土) 御苦労さん会

忌中のものばかりが集まって、一年間お疲れ様でした、と昼食を食べながら慰労する会をした。
会といっても四人である。

テーブルに並べたのは紫野和久傳の弁当、本醸造「久保田」、穀物茶、ルイボスティー、「コールデン珈琲」のスペシャルブレンド珈琲、蓮根餅、六甲カシミアチーズのお菓子などなど…。
酒を飲む女二人、飲まない男二人による会だった。

ちょうど南座で顔見世をやっていて、勘三郎氏はいいんだけれど、最近、高麗屋がちょっと…という話題に…。
弟さんは先代にそっくりになってきたんだけれど、とか。

いやいや、片岡愛之助がええねえ。いやああれはええよ。ああほんまにええねえ。
と彼の評判がとにかくいい。
仁左右衛門さんの部屋子からはじめはったんや、とかなんとかかんとか。
上方歌舞伎のホープです。

会がひけてから、片付けをして、さて早く寝ましょうか。
最近、午後の間眠たくて仕方がない。午前中と夜は目が冴えるという…。
うーーーん。
せめて6時間寝ないといけないのかな。
ずっと、そんな長い時間、寝たことがない。



2006年12月15日(金) 無茶な

友人がやってきて、うちの猫たちに姓を付けていった。
名はすでにあるので、姓をつけるんや、という。
なんでえな、全部うちのもんやんか、といったが、おのれが孕んだわけやあるまい、といって強引につけた。

顔と雰囲気、普段の行状からぴったりの姓を選ぶねん、というのでいつのまにか私もいや違うこっちのほうがいいやん、と必死になっていた。
馬鹿だった。

近藤ルル男
安田キキ
村上ピピ
篠原チャチャ

以上なのだが、ルルとピピはきょうだいなので、青空るる、青空ぴぴ、と漫才コンビのような名前になりそうだった。

友人は川上弘美の熱烈な愛読者である。



2006年12月13日(水) 京都地裁前を走る

曇り硝子の中にいるような午前中、祇園に用事があって自転車で出かける。
なんとかもってくれという願いもむなしく、丸太町のあたりでぽつぽつと降ってきた。

先を東へ急ぐと、人だかりができている。報道陣も多い。
京都地裁の前だ。
今日何か大きな判決がおりる事件があったっけ、と思いを巡らす…。

あった。
「ウィニー」の判決だ。

「ウィニー」というソフト自体のあまりの革新性になにもかにもがついていけてない、とおもっていた。
しかしながら、裁かれるのは開発者ではなくて、使って法に触れることをした人でしょう。

テープレコーダーやビデオカメラ。
ダビング機器。こういうものを開発した人間はどうなるんだろう。
起訴した論理を延長すればそうなる。

時間が迫っていたので、早めにそこをあとにした。
後でニュースを読んだけれど、判決はどちらにとっても納得がいかないだろうとおもう。

まだまだ裁判は続きそうだ。




2006年12月12日(火) 文語調

かなり旧いテレビドラマをみた。
原作・幸田文。「おとうと」。
主演・木村拓哉、斉藤由貴。いまではもうその姿を見ることのできない、中条静男、下条正己がでていた。キムタク氏は中学生の頃だろうか。

幸田さんの本はエッセイを中心に何冊か読んでいる。とにかく文章がうま過ぎて、「あれっ、なんて書いてあったっけ」と流れるように読めてしまうので、読むのに用心している。
そんな幸田さんの、たぶん自伝的小説が下敷きなのだろう。

台詞の言い回しが、あえて文語調の匂いを残していて、とても新鮮に聞こえた。
それにしても、少年キムタク氏は抜群にうまい。現代劇よりずっと好きだ。

ひょっとしたら昔の日本人…例えば時代劇をやっているほうが、ぼくは好きかもしれない。

■メルマガ、前半部分書き終える。明日から掌編小説を書く。
■川上弘美さんの「光っているもの、あれは」と「真鶴」を併読している。
「夜になると鮭は…」「夜になると母は…」これは川上ワールドだなあ。



2006年12月11日(月) ワーキング・プア

昨日、NHKの特集で放送され大反響をよんだ「ワーキング・プア」の「2」を見た。
たぶん最初の回と同じような反響を呼んだだろう。

「ワーキング・プア」とは当たり前に、あるいはそれ以上に働いているのに生活が立ちゆかない人たちのことをいう。

例えば母子家庭のお母さん、あるいは家族に病人を抱えた人、あるいは技術がありながら低賃金を余儀なくされている人などである。様々な理由で困難な老後を送る人もそうだ。
そういう人たちが急速に増えているのだ。

ニートなどと違うのは、みな必死になって働いているということである。
そういう人たちにかぎって、人の二倍から三倍働いている。
それで食べていけないというのはおかしい。
あきらかに社会構造がおかしい。

所得の再分配構造が消えつつある。
格差社会というのは勝ち組と負け組の物語ではない。一握りの高所得者と圧倒的な貧困層の社会である。

そして貧困が理由になり、機会均等がどんどん失われていくだろう。
日本の「一億総中流」というのは幻想に過ぎない。
これは世界的な傾向で、ドイツでは全人口の13%が貧困層になる恐れがあると指摘されている。

中南米で何故、反米左派政権が次々と「民主的に」生まれているのか。
貧困層がマジョリティ(多数派)だからである。
そして人々は何が貧困を生んでいるのか気づき始めている。
グローバル・スタンダードという名のアメリカン・スタンダードである。
富の集中システムが全世界をおおっているのだ。

民衆をあまりに虐めすぎるとそのしっぺ返しは必ずくる、ということだ。
だからといって反米左派が必ずしも全てではないと思うけれど
、すくなくとも社会保障を大切にした国家運営を国民は期待しているのだろう。
彼らは貧困を何とかしようとして、政権の座に着いたのだから。

翻って日本はどうか。
社会システムをなんとか変えていかなければならない。
働けど働けど…では、人が弱り、挫け、壊れる。
そして国そのものが弱体化していくのは目に見えている。





2006年12月09日(土) ノート

■きょうは「ティンブクトゥ」に集中。
感想をノートにまとめて、アップした。

■昨日、メルマガを配信した。

メルマガにもノートにも大江さんの作品が登場する。
後者は、昨日届いた「新潮」2007/1月号からである。
大江さんは「形見の歌」という詩集を準備中で、そのうちの二編が掲載されている。
読みやすい詩。大江作品を読んできた人なら感慨深いはずだ。
しばらくその詩から離れられなくなった。

同書には堀江敏幸さんの新作も掲載されている。
そのまえに川上弘美さんを読む。



2006年12月07日(木) 氷雨

時々みぞれになりながら、冷たい雨が降った。
メルマガの配信予約を済ます。
だんだんリズムができてきたようにおもう。

昨日、削ろうか、とおもった小説の部分は残した。
そのぶんだけ長い。
詩はまだ草稿。

「慶次郎縁側日記」をみる。
奥田英二の黙った演技は好きだ。石田えりも好きな役者さん。
二人の絡みが中心だったので、映画を見ているような、テント芝居をみているような気分になって愉しかった。

腰が痛くてロキソニンを飲む。
冬になると、必ず一度は腰が痛む。

そろそろと読書。



2006年12月06日(水) しるし

今日はメルマガの原稿に集中。
夜にだいたいできあがる。今回は画像が少なめ。
最近必ず入れることにしている短い小説も何とか書いたけれど、明日見直して、迷っている部分の検討をする。

自分のからだのリズムと生活と書くことのバランスからいって、夜は寝ないといろいろと不都合がおきることを確認した。
お酒を飲まないし、夜、外にはまったく出て行かないから、夜更かしの原因は音楽か小説。
コントロールしなきゃいけない。

長らくブログにアップしていない小説たち。
書き飛ばしたストックが若干残っていて、それを仕上げていく作業もある。

再読したあと、厚みをつけて書き直せる自分がいたりすると嬉しい。
夕方の散歩の時、やっと詩が二行だけ浮かんだ。これも嬉しい。
忘れないように書いておく。

書き終えてぼんやりとテレビの歌番組を観ていたら、ミスチルがでてきた。
お、「しるし」を演るかな、とおもったらやってくれた。
この曲は好きだ。「力」がくる。
不安定さから始まって…桜井君のいいところ、凄さが全部出ている。




2006年12月03日(日) 目を洗う




四条高倉の大丸六階の美術ギャラリーに日本画を観にいった。
今、「アートスポット」で竹林柚宇子さんの、「美術画廊」で河嶋淳司さんの展覧会がおこなわれている。

竹林さんの作品は「尖」の小品展でもおなじみの「ドングリヘッド」のヴァリエーションと新作「恋慕」の連作。
変わり続ける竹林さんだけれど、「指派」以降、また変わったとかんじた。

絵の精神性だとかはあまりいいたくないのだけれど、「恋慕」シリーズはいままでとちょっと違うぞ、とおもった。「熱を帯びている」「焦がれている」という言葉が浮かんだ。
どちらかというと透明度の高い絵、という印象の強かった竹林さんだけれど、いままでよりも熱が透けてみえたのだ。

河嶋さんの作品には驚いた。事前に竹林さんから「青猿」を是非、といわれていたのだけれど、初めて観てなんという「青」だ!!と動けなくなった。
それ以上にこれが日本画なのだということを完全に忘れていた。

意匠の鋭さ、パターンデザインの絶妙さを見せつけた琳派、あるいは大和絵の流れの中に、というかそれを踏まえて
いわゆる日本画とまったく違う世界を作り上げている。
伝統を踏まえつつ、あえていえばポップである。シンプルで大胆である。
日本画というイメージ、あるいは枠というものが完全に踏み越えられていると感じた。

河嶋さんの作品ははアニマル・グラフィティ(動物の落書き)といわれているらしい。彪も、象も、シマウマもみな目を奪われる色彩である。
美大の先生が「目を洗われるような色彩」と形容していたけれど、まったく同感。
一緒に行った人がこの絵が部屋にあるだけで、もの凄くいい空間になるといっていた。
「青猿」がもし部屋にあったら、と想像しただけで部屋の全て、生活が変わるだろうとおもう。毎日、毎日、目が洗われるのだから。

竹林さんの小品はぼくの部屋にある。
そこを中心に部屋が、態度が組み立てられるというのはなかなかおもしろいもので、それは毎日、経験している。
もし「青猿」が、と想像しただけで楽しくなる。

日本画のイメージから逸脱していこうとする竹林さんの作品が、その先達ともいえる河嶋さんの作品と並んでいることに、なんともいえず縁を感じたのでした。

河嶋さんの絵は5日まで、竹林さんの絵は12日まで観ることができます。
無料です。




2006年12月02日(土) 冬が来たので本をゆっくり読もう

昨日まで、なんだか妙に暖かだったのだけれど。
今朝、散歩していて冬の寒さを自覚した。そんな気温になった。

北西の風がとても強くて
紅葉が次々と散って、冬の木の姿が街に現れ始めた。

猫は布団の中から出てこないし、ハナもそんなに散歩をせがまない。
明日はもっと寒いらしい。
雪が降るかな。

ここのところ、ともすれば積ん読になりがち。
だんだん手当たり次第に本を読んでいる状態になってきていた。
と、ここでストップ。

「量の読書はこれで終わりにしたい。これからは、自分にとって大切な本を大切に読もう」
という原則に戻る。
これは平野啓一郎さんの「本の読み方」に我が意を得たり、とおもい、メモしておいた言葉である。
これとは別に評論家の福田和也さんの「文章教室」も読んだ。
実はこの二冊はまったく主張が逆なのだ。
もちろん、福田さんは「速読派」。平野さんは「スローリーディング派」である。


例えば「良いといわれることは何でもやってみる」という平野さんが、「あれはだめだ」という「書き写し」のことを、福田さんは誰もやりたがらないけれど、是非やるべきだと書いていた。

やってみなければ分かるまい、とぼくは吉行淳之介さんの短編から長編、片っ端から原稿用紙に書いた。きっちり句読点も旧い漢字も押さえて。延々と書き続けた。何作も何作も…。

結果。
平野さんの主張がぼくにはあっていた。書いてあるとおりだった。
やってみなけりゃわかんない、ということ。
そのかわり、本をぼろぼろにするスロー・リーディングを実践している。
ノートをとったり、アンダーラインに書き込み。
だから遅い。
何度も読み返す。

さて、その前提として自分にとって大切にしたい本とはなにか。
読書の先輩「文庫本主義者」は「だめだとおもったらすぐに読むのを止めなさい」という。「時間の無駄」だと。
大江健三郎さんが「三振やファウルを打つような読み方にも無駄はない」と書いておられたのが励みである。好きな作家、その作家の好きな作家、と辿っていくような読み方になるだろう。
大江さんも速読はすすめない。
「リリーディング」をすすめる。「読みなおすこと」を。

今日、もう一度、平野啓一郎「本の読み方」を再々読して、方向を決めた。
ぼくはなかなか信じないほうなんだけど、納得した。

毎日少しずつでもいいからじっくりと読んでいく。
とばさない。
これって書くことにも通じているんじゃないかな。

今読んでいる本
「ティンブクトゥ」ポール・オースター
「グレート・ギャツビー」フィッツジェラルド・村上春樹訳
「河岸忘日抄」堀江敏幸
「光ってみえるもの、あれは」川上弘美

どれも感想文をアップする予定で読んでいる。
感想文というより最近は「ノート」といっているけれど、これをブログにアップしようとおもうと、ぼくはゆっくりじっくり読まざるをえなくなるからだ。
自分に仕掛けているのです。

福田流がよい人もいるとおもいます。
ぼくはたまたま平野流、ということです。
ほんとに、たまたま。



2006年12月01日(金) 師走

今日から師走。
なにやらばたばたしているうちに今年も暮れていく。

金曜日はメルマガを出した後で、いちばん気が緩む。
そして、なるべくはやく次の「作品」のことを考え始める。


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