散歩主義

2006年10月30日(月) 闇へ

ほんの少しだけ時間がとれたので、「余情」の取材に出かける。
帰ってきて、書き始める。

サルトルの短編集「壁」を読み始める。ほとんど散文詩のように読めるのだが。
自作は少し前進。

「こぺる」11月号を読む。(市販されていません)。
鶴見俊輔さんの「不良」ならではの啖呵のきりかたがいい。

イジメ、同和、
人を人として見ているかどうか、ということだと思う。
相手も、自分も、等量の視線で。

先日書いた、デビリテの続編を読む。
闇についての記述に刺激を受ける。
以下、自論のメモ。

20世紀末にブライアン・イーノやロバート・フイリップは、来るべき世紀についてexposureというキーワードを投げかけた。

一面、その言葉どおりの世界になった、かにみえる。しかし、メディアにコントロールされた、情報の暗黒部分がある。
一方、個人の暗部たる内面にも、メディアは容赦なく踏み込んでゆく。

何もかもがあからさまになっていくなかで、逆説的に闇にこそ生命力が蓄えられていく時代でもある気がする。
闇が滅びれば光は光ではなくなる。光が消えれば闇は闇とは違う「もの」になる…。

「闇を抱きしめる」
ふとそんな言葉が浮かんだ。



2006年10月29日(日) 「手つき」

物語を運んでいく「手つき」、小説を書き進めていく「手つき」。
吉行淳之介さんがよく使う言葉だった。
「手法」に近い意味だけれど、少し違う、と解釈している。

実に感覚的な言葉だ。受け取る一人一人のイメージの中にしか存在しない言葉だとおもう。(言葉はみなそうとも言えるけれど)
ぼくのイメージでは、例えば金網細工の職人だとか、漆の塗り師の「手さばき」のイメージに近い。

材料の取り扱い、吟味の仕方、何をどう生かすのかという検討と工夫、そんな作業にみえる「手つき」。
実際の制作作業にみえる、神経の鍛えられた「手つき」。
そんなイメージで小説を書くのだ。

むしろわかりやすいのは「生き方」の「手つき」のほうかもしれない。
どこと繋がり、どこと切れているのか。
何を信じ、何を信じないのか。どこに棲むのか。誰をどう愛するのか…。

それが醜悪なのは論外として、吉行さんがすぐれた「手つき」と評価するものは「神経が行き届いている」「客観的である」「悩むことに明晰である」
…そんな「手つき」であったように思う。

今日で、吉行さんについての学習が一段落した。書いたメモやらノートは原稿用紙で400枚を越えた。
明日から、自作の作業に集中したい。



2006年10月28日(土) mornin` has broken…

午前中の清々しい晴天の下、ハナとゆっくりゆっくり歩いた。
休日で、車もなく静かな路を歩いた。
塀を越えて空を指さす木々や竹を透かして、秋の光がこぼれていた。

ふいに、以前聴いた曲のメロディーが頭に浮かんだのだけど、冒頭の部分以外、歌詞が思い出せない。
mornin` has broken で始まる唄。
たぶん原題もそうだった。

キャット・スティーブンスだっけ???
「雨に濡れた朝」だ。
ずっと口笛を吹いて歩いた。

今日から近所の神社で秋祭りがはじまる。
昼前から、にわかに賑やかになってきた。



2006年10月27日(金) 静かなままで

昨日、配信予約しておいたメルマガの配信完了メールを、朝5時に確認。
メルマガはますます「極々私的」になっていく。
身の回りから掘り下げていく、身の回りこそ宇宙と繋がっている、とおもいつつ、書いていこうとおもう。

テレビもオーディオも消していると、ハナがよく寝る。
普段は五月蠅いんだろうね。なるべく消すようにしているんだけれど。

新聞料金の支払いをしたら、来年のカレンダーを貰った。
はやいなあ。

小説の勉強、原稿用紙285枚を超える。300枚を楽に越えていきそうだ。これが済んだら、自作だけに集中する。
シェーファーがもう一本加わる。
「ドイツ製の4Bの鉛筆」に興味がある。ただしメーカーが分からない。



2006年10月24日(火) 「ゆく」と「いく」

吉行さんの勉強をしていて、ずっと気になっているのが「ゆく」という表記だ。
漢字で書くと「行く」。

吉行淳之介という作家は(も)、字の使い方に独特のこだわりを持っていたことで有名だ。
もっとも知られているところでは「軀」。読みは「からだ」。「体」でも「身体」でも「躰」でもない。一貫して「軀」を使う。
もう一つは「翳」。読みは「かげ」。「陰」や「影」と併用しているけれど、「翳」が一番多い。

だから現在の作家で、わざわざ「からだ」にだけ旧仮名遣いの「軀」を使っている方がいると、「私は吉行フォロワーですよ」と宣言しているようにみえる。

他にぼくが気になったのは、「思う」と「おもう」の使い分け。「思い出す」というニュアンス以外はぜんぶ「おもう」と書く。
それと「ゆく」。

ぼくが思い出すのは、中学校二年の国語の授業でのことだ。
課題の作文で、自分の作品がずいぶん褒められ、教師が全員に朗読して聞かせたのだった。そこまではよかった。

読み終えた国語の教師が、「しかしね」とにこにこしながら指摘した。「今読んだ作文に出てくる『ゆく』は全部ペケです」
教室の全員、なごやかに大笑い。

ぼくは小さい頃から「行く」を「ゆく」と発音し、ひらがなで書くときは「ゆく」と書いてきた。「いく」とは書かなかった。
「気をつけてね。入試でこれやったら減点されるから」と教師から念を押された。

そんなことがあっからよけいに気になったのかもしれない。
吉行さんは、ことごとく「ゆく」と書いている。
小説には○も×もないんだし、読めないような当て字を作る人だっている。

あまり考えないようにしようとおもうのだけれど、どうしても引っかかる。
うーむ、一種の軽い呪縛なのかな。



2006年10月23日(月) 久しぶりの雨

久しぶりに雨が降った。本降りである。
黄花コスモスの花びらが、アスファルトに散らかっていた。

夕刻、ふと、何かおもしろい本はないか、とおもい、調べてみた。

すでに注文している本もある。
先月から、光文社より「古典新訳文庫」が出だしていて、
そのなかからジョルジュ・バタイユの「マダム・エドワルダ/目玉の話」を注文した。

「新訳」というのが、いいかなとおもったのだ。
新しい光が当てられるかもしれないし、それで「なにか」が感じられたら、おもしろい、と。
安価で読めるのも嬉しい。

いろいろと調べて、明日にでもこっそり注文しようと思っているのがポール・オースターの「ティンブクトゥ」。
これは文庫じゃない。
犬と人の話、犬の視点で書かれた話、ティンブクトゥとは「あの世」ということ…。人はどうも詩人であるらしい…。
これは、読まずにはいられない。

雨降りの中、果敢にもハナは散歩に出かける。
「病気」以降、身震いするとバランスを崩して倒れていたのだけれど、崩しながらも倒れなくなった。
元に戻ろうとする力の凄さに、打たれる。



2006年10月22日(日) MIXI

週刊現代に内山幸樹さんの書いている「仮想世界で暮らす法」というおもしろい連載記事がある。

今週号によれば、
今年の春、彼のところへ花見への招待メールが来たのだという。
それには期日が書いてあり、参加するか否かを、MIXIの●●というコミュに書き込んでください、と結んであったそうだ。

ソーシャル・ネットワーク・サービスの「MIXI」。会員制だから、いろんな意味で「強制力」がある。
例えばメール機能にしても、将来的には筆者が書いているように、ミクシィ内部だけになるかもしれない。

メールはアダルト系の迷惑メールがあの手この手で乱れ打ち状態だから、大事な仕事の連絡に、ミクシィを利用している人も増えているという。

ミクシィの急成長ぶりに、慌ててのっかっていこうとしたところがあるけれど、追いつくのは無理だろうとおもう。
どこかへ移るにしても、「友達込み」で移動しなくてはならないからだ。
その友達にはまた友達がいるし…。

だからといって、ミクシィ内部に「荒れたコミュ」がないかというと、そんなことはない。だけど排除が素早い。
それが信頼性を高めているんだろうともおもう。

厭な人もいるだろうし、入りたくないと思うのも自由だ。
だけど切実なおもいで、逃れるように入れてもらった人もいる。
会員はさらに増えるだろう。



2006年10月21日(土) 200枚

一つのテーマで書きだして、四百字詰め原稿用紙200枚を超えた。
今まで、140枚、180枚というのは、何度かあったけれど、200枚を越えたのは、初めてだ。

ずっと「屋久杉」万年筆で頑張ってきたんだけれど、180枚を越えたあたりから、ふらふらしだして他の筆記具の助けを借りた。使用したのは
シェーファー万年筆、「コナ材」ボールペン、ユニ3B,4B、トンボ鉛筆B、三菱シグノ太字、0.5、ゼブラサラサ0.7,0.5,

原稿用紙20枚の間にこれだけ変えた。指の調子の問題。
また「屋久杉」万年筆に戻り書いている。終わる頃は250枚くらいになるとおもう。
残念ながらこれは「作品」ではなく、それは同時並行して進んでいるんだけれど、200枚どころか100枚もいかないかもしれない。

一月に300枚書くという方がおられる。ぼくも枚数だけなら今月はとっくに300枚を越えている。
しかしながら作品として結実させていくのに、そうは簡単にはいかない。

明日も、あさっても作業は続く。
合間合間にだんだんホセ・カレーラスのテノールを聴くようになってきた。



2006年10月19日(木) Blue black

ちょっと悪夢をみたものだから、眠りが浅い。
まだ夢を覚えてる。
鉄錆色をした、誰もいない大通り。街を彷徨う夢だった。

万年筆のインクを、ブルーブラックに変えた。



2006年10月16日(月) 「デビリテ」 debilite

金曜日発行のメルマガの初稿を書き終えた。
今度の号から、様々な理由により「視点」をより身近に置くことになった。
その結果、エッセイか小説のようになった、と自分では思っている。
その「初稿」が書けた。

興味深い記事について。
京都新聞に連載されている「露出する『心』 現代の精神病理」というコラムに注目している。書いているのは立木康介氏(京大助手)。

今日は第二回。
現代社会を覆う精神病理として「デビリテ」を挙げている。
記事の詳細は書かないけれど、問題提起は次のようなものだ。

「私たちは『本来なら心の中にしまっておくべきことを語ること』をもてはやす文化の中に身を置いているのではないか」

いいとか悪いとかの問題ではない。
現状に対する認識として、である。

文化のあらゆる分野、媒体が『心』によりかかる。
文学、映画、テレビドラマ…すぐにトラウマや深層心理は、といった言葉が飛び交う。ニュースやバラエティでは執拗なまでに被害者やその家族の『心境』を聞き出そうとする。
ある政治家は、政治問題化した事案を『心』の問題としてしまう。

そんな状況をネガティヴにとらえた言葉が「デビリテ」である。
フランス語(debilite)で、一般的には身体的、精神的「ひ弱さ」を意味する。

精神医学用語としては、一定範囲の知的障害を意味する。
この名詞に対する形容詞「デビル」(debile)は「ばかげた」「ろくでもない」という意味だ。

立木さんのコラムを読んで即座に思い出したのが平野啓一郎さんの小説「顔のない裸体たち」であった。
匿名の罠に溺れ、裸体をあからさまにして興奮する神経は「デビリテ」に通じはしないか、と。

或いはこうも思う。
こうやってネットに書き込んでいる、わたし(たち)は、常にそういう心理状態と隣り合わせだということだ。

ネットの現況および「これから」は「全てが明示される」時代がさらに進むのかもしれない。
しかし『心』のあつかいは丁寧にすべきであろう。あなたやわたしが潰れないために。

例えば自らの暗部、恥部までも平気で語る(強いて語らせる)テレビなど、
「社会は『デビリテ』に憑かれていないか」と立木さんは指摘する。

ところでメルマガはぼくの中では「超短編小説」に位置づけられそうである。






2006年10月14日(土) Blues

椅子に腰掛けて唄っていた
自分にも聞こえないくらい
自分にも判らないくらい
とてもとても小さな声で

くちびるが自然に尖っていく
なにしてるわけじゃない
ただ腰掛けて唄ってた
言葉の渦巻くまま
うっ うっと唄った

自分にも聞こえない
自分にも判らない
破れた声で

椅子に腰掛けて Blues
俺はここからどこにも動けない
力もなけりゃ 心もない
椅子に前には悪魔がいて
俺が立ち上がるのを待っているんだ

動いた途端奴が俺になる

あんたには見えないだろうが
俺には見える
肘をつき薄笑い浮かべた
透明な
悪魔

椅子に腰掛けて
俺の顔してる悪魔を見返していた
俺はここから動かないぞ
手も心も動かさないぞ
俺は茶色い溜まり水になるぞ、と念じた

奴は俺が動くのを待っている
椅子に腰掛けて Blues
奴のぶるぶる震える声を聴く
俺の顔をした悪魔が動くのを俺は待っている

俺なんてどこにもいねえ
そんなものは水たまりで溺れ死んだ
早くそうおもえ くそ悪魔

椅子に腰掛けて唄ってた
何唄ってたわけじゃない
泥を吐くように
うっ うっ
うっ うっ



2006年10月13日(金) こんな天気がずっと続くならば

素晴らしい天候。
こんな天気がずっと続くならば、…とおもう。
明日もいい天気。
来週の金曜日まで続くという。
爽やかだ。

文庫本主義者が角田光代さんのエッセイ集「これからはあるくのだ」がおもしろい、という。
ここを読め、というから、ふむふむと読むと、
読んでない、といって怒る。なにを書いてあるか言え、という。

このエッセイの文章は抜群に切れている、とおもう。
特に「これからはあるくのだ」は怖い。
どれもこれも短いけれど、見事にまとめてある。

私はね、と彼女は、
カクタさんは小説よりエッセイの方がずっといいとおもう、といいながら、しきりに読め、読めとすすめる。

文庫本主義者は彼女なりに、ぼくのメルマガ「京都余情」を心配してくれているのだ。
エッセイにしなよ、ということだ。

夜、ライ・クーダーのサントラ「パリス・テキサス」を聴く。
このサントラはライ・クーダーの他のソロアルバムの中でも、かなりよく聴く盤だ。

これも含めてブルース色の濃い、ソロの最初の頃のものをよく聴く。
このサントラはブラインド・ウィリー・ジョンソンの「Dark was the night」が下敷きになっている。
メキシカン・トラデイショナルの「カンシオン・ミクステカ」をのぞいて。
この「カンシオン」も乾いている。

「Dark was the night」はソロ・デヴューに収められている。
「夜は暗闇」という訳があてられているけれど、この言葉でいつか小説を書こうとおもっている。




2006年10月12日(木) 今日は今日の…

明日発行のメルマガの配信予約を済ます。
「極私的」なものから、さらに「極々私的」なものになることを皆様に通知した。
あまり外に出ることができなくなったからだ。

そうなると、家の中で何ができるか、となる。
というか、それしか場所がない。

アンテナを尖らせてじっとしている。
これって「創作向き」だ。「取材向き」では全然ない。
生活から拾っていく。
今日は今日の…。



2006年10月11日(水) 吉行さんの本

吉行淳之介さんの作品を、なぞるように勉強している。
現在、三作品め。まだまだ続くとおもうけれど、それとは別に自分の作品のも格闘中である。

ところで、講談社文芸文庫からでている吉行淳之介短編小説集を手に入れた。亡くなってからだされた新潮社の吉行淳之介全集を、ばらばらで持っているため、短編小説の収集がうまくいっていなかった。

この文庫は貴重である。
ひとつは、昭和23年から平成2年までの短編が収録されていること。
ひとつは、ご本人が「初めて散文が書けた、初めての小説だ」とおっしゃっている「薔薇販売人」より以前に書かれた「藁婚式」が収録されていること。

「藁婚式」は、いってみればインディーズでのデヴューのようなものだけれど、後の吉行作品を暗示する要素がほとんどそろっているようで、おもしろい。

残念なことは「水の畔り」が入っていないこと。未読なのだ。
この短編は村上春樹氏が、吉行作品の中の短編小説でイチオシとしているものでもあって、これは全集の第一巻を何としても捜す以外にないようである。
(春樹氏は図書館で読んでください、と書いていた。)

ほかにトーマス・マン、ヘンリー・ミラーを読んでいる。
ただ昔の蔵書で、字が小さいのが悩みの種。

むろん吉行さんの繋がりでの読書だ。
ただ、21世紀はマンもしかりだけど、ヘッセを再認識するときかな、ともおもうので、「シッダルタ」も机の上に置いてはいる。

腰を据えてじっくり勉強しつつ、自分の原稿も前に進めていきたい。





2006年10月09日(月) パーソナル・テレビ

テレビの画像が、すんっと消えた。
ちょうど朝食の途中だった。

原因がアンテナなのか、配線なのか、テレビ本体なのか、判然としない。
今日は休日なので、いつも修理を頼んでいる近くの電器店も休みである。
まあいい、テレビのない一日を過ごそうということになった。

テレビがないとどうなるか。「時間」ができる。
元々そんなにテレビが好きなわけではないから、なくてもまったく平気だけれど、
視覚が奪われずにすむということは、とても貴重だ。(聴覚もそうだけれどそれ以上に視覚。)

しかし無いと困る家人もいて、さっさと自室へ戻っていく。自室でテレビを観るのだ。
ぼくもパソコンに接続すれば観ることはできるのだけれど、パソコンでテレビを観る気がしない。今、パソコンで観る動画はDVDかネットのyoutubeくらいである。

そんな一日が過ぎ、明日、電器店のおにいちゃんに診てもらうことになった。そして、もしテレビ本体がダメだったら、新しいのを買うのは止めよう、ということになった。
めいめいが観たい番組を自室で観ればいい、と。

ぼくも賛成。食事の時間が静かになるし、みんなでしゃべることも増えるし、食後にずるずるとテレビの前に坐ってなくてもいいからだ。
ただそうなると、ぼくはたぶん、ほとんどテレビを観なくなる。

「アンフェア」のようなドラマは、友人の文庫本主義者がチェックしているだろうし、おもしろいのがあれば後で観ればいい。

今、ぼくがテレビの番組で一番おもしろいと思っているのは、NHK−HighVisionでやっている、「地球の街角」である。



2006年10月08日(日) 金木犀の香る街

通りに金木犀の香りが漂っていて、気持ちのいい秋の風がながれている。
家の前を掃除していたり、ハナの相手をしていると旅行者の方からよく声をかけられる。

「●●寺へはどういけば」
 というのが大半である。「碁盤の目」に添って説明できれば簡単なのだけれど、そうでない場合は骨が折れる。
ずっと昔からそういう経験をしていたせいで、ベンディング・マシーンという英単語を覚えたのははやかった。

目印にそれをいうことが一番多かったからだ。

北海道沖の悪魔のような低気圧のせいで、気圧配置は西高東低。冬型である。ずいぶん涼しくなった。ただし、明日から昼間はまだまだ暑いようだが。

こんな日に小説を読んでいるのはいかがなものか、ともおもうけれど、家人の病気とハナのことがあるから、家からなかなか離れることはできない。
ずっと吉行淳之介さんの小説を「書き」続けている。

若い人の小説だと本谷有希子さんの「生きてるだけで、愛」という、ずいぶんブルージィな小説を読み出したんだけど、
「大丈夫たよ」という言葉(同棲相手が「大丈夫だよ」をケータイメールで打ち間違えた部分)を読んだ途端、噴き出してしまい、笑いが止まらなくなって中断している。
ほんとは「すさんだ生活」がひりひりと描写されているんだけど、「大丈夫たよ」がおかしくて…。ツボに入ったというのかな。

妙な暑さがぶり返さず、このまま順調に寒くなれば今年はここ二、三年にない美しい紅葉になるかもしれない。
「ここ二、三年」でも綺麗なところは綺麗だったのだろうけれど、暑くてずいぶん枯れていたのが多かった。ずいぶんがっかりして紅葉を見ていたんだった。

息をのむような凄絶な紅が期待できる…かも。



2006年10月07日(土)




関東以北では猛烈な嵐だという。
関西も秋雨前線の影響下にあって不安定な天気が続き、時折突風も吹いた。

夕方近く、ハナのリハビリに外へ出たところ虹が見えた。
当分空に架かっているだろうとおもい、ゆっくりとデジカメを持ち出して撮影していたら、直後に消えた。

考えてみれば虹はたいてい一瞬のこと。
ここは瀑布でもなんでもない、ただの街なんだから。

家に戻って吉行さんの小説を勉強。


「新潮」11月号が届く。
第38回「新潮」新人賞と第14回萩原朔太郎賞が発表されていた。

芥川賞よりも、選ばれる作品が、少なくとも「尖っている」とぼくには思われる同賞だけれど
今回の「ポータブル・パレード」はどうだろう。これから読む。

第14回萩原朔太郎賞のほうは、なるほどとおもった。
「なるほど」とおもったのは、高橋源一郎さん、入沢康夫さん、清水哲朗さんの選評である。
なるほどぼくらは21世紀に生きているな、と。
「優れた詩なんか書いている場合じゃない」(高橋源一郎さん)

受賞作、松本圭二「アストロ・ノート」への評価は分かれると思うけれど、とにかく手にとらなければ…話はそれから。
「新潮」に掲載された作品は、ぼくには読みやすい。
(詩集本体は、まるで読まれることを拒否しているのかの如く、読みづらいらしい)
「詩」に絶望しているけれども、なによりもあつく「詩」だとおもう。

「新潮」では平野啓一郎さんの「決壊」の連載が始まった。
現在の日本文学最前線のひとつが凝縮している号だとおもう。

ところで週刊現代に「ナナ氏の書評」という週刊誌の書評では一番辛口とおもわれる書評コラムがある。
週刊誌掲載だけれど、毎月の第一回発売日にのみ掲載される。
今回はポプラ社小説大賞への批評だった。辛口故に、しっかり読んだ。

そういう最前線を横目で見つつ、ぼくは書いている。
ずいぶん遠いのか、近いのかはわからない。
ただいつも一人である。たぶん誰もがそうであるように。



2006年10月05日(木) 10月の薔薇




10月の薔薇が満開です。
これはプリンセス・モナコ。



2006年10月04日(水) 「今」を生きる。

昨日書くことができなかったけれど、ハナが劇的な回復を見せて一日が過ぎました。

改めてメールや書き込みを頂いた皆様に、御礼を申しあげたい。
ありがとうございました。

今回、ハナの様子をずっと見ていて感じたのは、「今」を生きる、ということでした。
動物行動学などでは、「死の恐怖」を持っているのは人間だけだといいます。(だからといって犬や猫たちが恐怖感を持たないかというとそんなことはなくて、人間や雷におびえる犬や猫はたくさんいます)

「死の恐怖がない」、というのはどういうことだろうと考えてみたのですが、それは「過去」「未来」という感覚がない、ということではないのかと思い至りました。

「今をベストに生きる」。その積み重ねだけのような気がします。
一瞬、一瞬、ほとんど本能でその時のベストをチョイスして積み重ねているのでは、と。

それが、寝ることであったり、食べることであったり、黙ることであったり、動かないでいることであったり、走ったり、遊んだりということで、過去にも未来にも縛られていないんですね。
「ベストな今」が連続すればベストな未来が「来る」だろうし、後ろには「ベストな過去」が連なっていくのでしょう。

ただすんなりそうはいかないのが「生きる」ということで、アクシデントやトラブルに襲われます。
襲われたら襲われたで、その中でのベストをチョイスし続けていく。

時として、そのシンプルさをぼくは忘れているな、とハナの様子を見ていて感じ入ったのでした。

もう高齢でもありますし、平穏に暮らしてくれたらと願っています。



2006年10月02日(月) 曇りの日は遠くの音がよく聞こえる

ハナの初期集中治療が昨晩の注射で終了した。
ステロイド剤の投与には反対する方もおられるけれど、医師の管理の下、容態を観察しながらの投与は、緊急事態の場合やむを得ないとぼくはおもう。

今日からリハビリ期間、注射の期間を徐々に開けて、薬剤からの離脱をゆっくりとはかっていく。
昨晩は9日ぶりにドライフードを食べた。大進歩。
一方、失われた機能は発声機能と後肢のバランスが若干崩れること。

普段の暮らしに不便がないようになってほしい。
速さや恰好などが関係ないのはいうまでもない。

心配なのは、戻りつつあるのはいいのだけれど、失われたものがまだあると錯覚してうろうろしそうなこと。
戻らないものは戻らないのだ、とこちらもしっかり認識して、ことにあたらなければならない。

音楽はウォン・ウィンツァンさんのピアノと山本公成さんのソプラノサックスのデュオをよくかけている。ハナの好きな音楽が最優先なのだ。



2006年10月01日(日) あきさめ

何日か続いた晴れの日がとぎれ、秋雨が降った。
ここ何日か、おもしろいとおもえる記事はコピーせずに、全て万年筆でノートに書き写すという、超アナログなことをしている。
おもいのほかアタマにはいい。

写したのは池田晶子さんの週刊誌連載コラム「暮らしの哲学」のなかの「情報弱者の言い分」。鷲田清一さんの「『待つ』ということ」の抄録。
それに吉行さんの「暗室」を、だいたい毎日原稿用紙3枚ペースで勉強中だから、よく万年筆を握っている。
自分の作品は読み返し、朱を入れながらすすむので、はやくて一日10枚。遅くて三行、ときどき一枚分ぐらい後戻りする。

太宰治の「待つ」という超短編を読んだ。全集に収録されていて、3ページしかない。それから「晩年」のなかの「思い出」を途中まで読む。
ぼくにとって太宰治というひとの文章には、引きずりこまれるリズムがある。癖が感染るような気がする。

「待つ」はおもしろかった。


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