散歩主義

2006年09月30日(土) 静脈

家族が倒れたり、あるいは自分が病気や怪我に苦しんだりすると、生活は「静脈的」になる。

あくまでイメージなのだけれど、開拓、運動、活発、新鮮といった動脈的なイメージよりも、回復、平穏、静止、といったことが生活上で必要とされる感覚になる。

つまりは「動けない」或いは「動かない」ということである。

しかしながら生活は「静脈」だけで成り立つはずもなく、時間もお金も体力も「動脈」と循環しなければならない。ただ静脈が動脈を規定する、というイメージで生活がなされていくのだと考えてみた。

いまのぼくは、というよりこれからのぼくは、そういう「静脈優位」の生活にならざるを得ないとおもう。

「動けない生活」をおもうとき、いちばんにでてくるのは正岡子規の著作だ。
一歩も動けない病を得てから亡くなるまで、その極限の生活から紡ぎ出された言葉は、時として鋭く人の浮ついた心を衝いてくる。

動けない、動かないといったって、この人ほどにはなるまい。
できることだけに意識を集中する。
その意識をもっただけで生活はみるまに脈動を始める。

ただし、ぼくが主におもうのは、彼の看病をした人たちのことである。
その人たちにこそ学べることがあるのではないかとおもう。



2006年09月29日(金) 来週こそ

今週はメルマガを発行することができませんでした。
ハナの看病と通院に手を取られたためです。
来週の金曜日には必ず発行できるように、暇をみつけては書き始めています。



2006年09月27日(水) 眠い

さすがに今日は眠い。
ハナの状態も薄紙をはがすように、よくなりつつあるので気が緩んだかな。

書く作業は、今日は取りやめ。こんな時に書いてもろくなことはない。
明日は早朝からがんばろう。

ところで、その早朝。家でチャイを入れてみようと思うのだけれど、チャイに使われている、とても細かい紅茶の葉は特別にあるんだろうか。
それとも屑葉なのかな。
それともオレンジ・ペコみたいな細かい葉っぱでもいいのかな。

いれかたはとてもシンプルで知っているんだけれど、チャイを家でいれたことがない。
お店ではいつもシナモンをいれてとても甘くして飲んでます。



2006年09月26日(火) 子供と父親

今朝はひやりとするほど気温が下がった。
それからこうして夜までたどり着いた。静かな一日。無事に感謝。

ハナの体調は安定している。
今日の夕方、倒れてから初めて食事を摂ってくれた。
牛のもも肉を薄く切って軽くあぶったもの。ほんの少しだけれど。

獣医さんの見立てだと、脳卒中の程度でいくと中くらいだそうだ。
もとより持久戦の覚悟、じっくりと面倒を見ていく。

ハナのアクシデントでメルマガの原稿が全然書けていない。
取材にでることもできず、思案している。
何が書けるだろう。短編小説を書いても読者の方は納得しないだろうし。
そんな状態なのに、今日は散文詩を書いて投稿した。
なんてことだ。

ところでジャンと違ってハナは体重が16kgなので抱き上げて近所を歩いてあげることができる。(ジャンは69kgだった)
土のところまで連れて行き、そおっと降ろしてやる。そこで自分の力で排泄したり、五、六歩あるいて止まったところで再び抱き上げてゆらゆらと家まで帰るのだ。
まるで子供と父親みたい、とそれを見ていた文庫本主義者が言った。

本日、「光函」「音函」発送。ご注文ありがとうございました。

さて、と。
何を書こう。



2006年09月25日(月) ハナ、その後

昨日は三歩、今朝は十歩、夕方には二十歩と
ハナの身体は一生懸命に元に戻ろうとしています。
ゆっくりとですが回復してきています。

倒れてからずいぶんおとなしくなったとおもっていたのですが、
どうやら発声機能をやられているようです。
アイコンタクトの毎日。以前から眼で訴える犬でしたから
だいたいわかりますけれど。

人間のような手術を行うわけにもいかず、脳圧を下げる注射を毎日打っています。
獣医さんが休み返上で治療に当たってくれるので、本当に有り難い。
完全に元に戻るのは無理としても、こつこつ歩いてくれて、自分でご飯を食べられるようになるのが
当面の目標です。
自分の足で立って、水を飲むまでには回復しました。



2006年09月24日(日) 九月二十三日は…。

二十三日の晩、ハナが再び倒れた。
前回よりも症状が重い。眼震が起きている。ふるえながら立つのがやっとの状態で歩き出すとひっくり返る。

土曜日で休診の医院が多い。しかも夜間である。
藁をもすがる思いでジャンがお世話になった獣医さんに電話をした。
すでに診療が終わっているにもかかわらず、快く応じてくださった。

医院に到着したときは九時を回っていた。
診察の結果、出血か梗塞かはわからないけれど、脳卒中であることは間違いないようだ。
対処療法を続けるしかない。
高齢でもあるけれど意識はしっかりしていて、これからは上手く介護をしていかねばならない。

帰ってからハナが大好きなピアノのソロをかけっぱなしにしている。
斉藤忠光さんのピアノである。何故だかわからないけれどジャンもハナも我が家にきてからずっとお気に入りのピアノである。
身体から緊張が抜けていく様子がよくわかるし、そのまま目をつむって寝入ってしまうのだ。

そういえば帰りがけに獣医さんがぽつりと言った。
「今日は、ジャン君の命日ですね」
そうなのだ。今日はジャンが亡くなった日で、家で咲き始めたプリンセス・モナコの花を、朝、写真の前に供えたのだった。

一段落したらジャンの写真に何と語りかけようか。

思案している。




2006年09月22日(金) 詩と小説

婦人公論10/7日号で佳作になった詩「屋上」をアップしました。
読んでみてください。二ヶ月ほど前に書きました。

ノートと原稿用紙に何度も書き直して、さらにパソコンに打って、それを原稿用紙に写し、書き直し、そして投稿するのですが、印刷物に載った途端、たとえそれが自分の名前だけだとしても、原稿用紙のストックをひっくり返して最終稿をみつめます。
やはりそこでまた直しているほうが多いです。これ以上はさわれない、というものが入選になっています。

ここのところ小説を原稿用紙に書いていて、相変わらず吉行淳之介さんの「詩より詩的なもの」という短いエッセイを基本にしています。
吉行さんの作品をいくつか勉強してきて、だいぶ感じたことが具体的な言葉になってきました。

端正な文章なのですが、音楽でいうとフリージャズに近い感覚だということです。
実はストーリーらしいストーリーをそれほど重要視していなくて、ディグレッションの連続が生み出す塊のような感情を浮き彫りにすることにこそ力点が置かれているように思います。筆写で「実感」しました。

今日、詩を一編書きました。ほとんど小説のような詩です。
今、書くとしたらそのスタイルか二、三行の詩か、どちらかです。



2006年09月21日(木) 日々、秋になっていく

日中の最高気温はまだまだ高いけれど、季節はしっかり進んでいきます。
今朝は特に気温が下がって、久しぶりに肩までタオルケットを被りました。
京都の暑さは結構しつこくて、九月の半ばでも別に何もひっかけなくても眠れていたんですが、今朝はさすがに「寒い」と感じました。

暑さ寒さも彼岸まで。
ほんとにそのとおり。

今日、婦人公論が書店に並んでいました。詩のフォーラムでは佳作でした。
「屋上」という詩です。
明日、ブログにアップします。

「書いて読む」作業、新しい本をはじめました。
自作もゆっくりと前進を始めています。



2006年09月20日(水) 書いて読む。

実をいうと、ここのところずっと本を写していた。
書き写していたのだ。「筆写」というらしい。
こんなことをする必要があるのかどうか、わからない。

ただ書いていて感じたことは二、三ある。
ひとつは、これは徹底的な「精読」の一つの形だということ。
そして、その作家の書き方のスタイルが覗けるということ。
もうひとつは書くのが厭になってくるということ。指の筋肉が痛くなってくることだ。

厭になるときは、「書きながら読んでいない」と気が付くときである。
集中して三十分。休憩して、また三十分。その繰り返しなら大丈夫。
三十分が過ぎたら、厭になる。集中力がとぎれる。
それがわかっただけでも収穫あり、と考えている。
もちろん書こうと思えば書き続けることができるけれど、意味がない。

三十分の執筆と休憩十分の繰り返しだったら、許されるならいつまででも書いていられる、とおもっていたのだが、200枚を越したあたりから指が痛くなった。

とにかく吉行淳之介「驟雨」と「夕暮まで」を書き終えた。
何度も読んだ本だけれど、「書いて読む」とまったく違う。どの漢字が一番多いのか、とか、読点の付け方の癖、ひらく漢字ひらかない漢字の区別まで覚えてしまった。

だけど、書いていて強く感じたのは技巧ではなく、精神のうねりだったということ。ストーリーでも文のうまさでもなく、その「うねり」がぎらりと光る細部の鋭さだった。
これが肝心だったと思う。


吉行さんの小説のいくつかはその細部が積み重なって成立している。
その形がみえた。
象徴詩のようでもあり幻想詩のようでもある記述がすぱっと挿入されていた。いくども。
「嫉妬」を客体化していく視点がナイフのようで、小説がそのことに安易な爆発をせず自身を踏みこたえつつ持ちこたえていく様に、充実と疲労を感じた。今までの読書以上に作者の「精神」に触れた気がしている。


筆写しながら何度も自作へのヒントが浮かぶ瞬間があった。
ただそれは流してしまって、もう一冊、作業を済ませてから、途中で止まっている自作へ復帰したいと考えている。

つぎは「暗室」を「書いて読む」。その次は谷崎を予定している。



2006年09月16日(土) 励まし

「群像」10月号は、60周年記念号である。ぎっしりと充実している。
現役の手練れの作家の多くが短編小説を書いている。
好きな作家で名前がないのは村上春樹、長嶋有、江國香織、保坂和志というところか。
宮本輝さん、橋本治さんは連載かある。

多和田葉子、川上弘美両氏の短編は早速読んだ。
「持ち味」100%発揮。切れてる。

しかし、もっとも切実に読んだのは坂上弘さんの「薄暮」だった。小説を書く、書き続けるということをじっと考えた。

そしておそらく記念号のメインであろう、大江健三郎、平野啓一郎両氏の対談を読んだ。
後半、大江さんがサイードの本をあげて語っていることが、これから書き続ける人への何よりの指針となり、励ましとなっているようにおもえた。

ところで今夜放送されたNHKの「あの夏−60年目の恋文」。とても良かった。
老いることへの励ましでもあった。



2006年09月15日(金) 吉行さんの字

吉行淳之介さんは自らの執筆スタイルを公開することに、なんの頓着もないかただった。
あるエッセイでは筆記具の変遷まで書かれている。

作家になられてからは、まず万年筆。それから鉛筆。
電気鉛筆削りを机の傍らに置いて、尖らせた鉛筆を何十本も用意していたという。
それから、原稿に消しゴムをあてられるので、消しゴム付き鉛筆を愛用され、このエッセイがだされた昭和51年頃にはボールペン愛好者になっておられる。
たぶん、最期までボールペンだったのだと思う。

そんな変遷の中で一貫していたのが、筆記具の持ち方である。
薬指と中指で挟むのだ。
ぼくも試しにやってみたけど、とてもじゃないけれど字が書けない。

全集のリーフレットでは、吉行さんの自筆原稿が紹介されているけれど、あの持ち方でどうすればこんな字が書けるのだろう、と思う。
字は草書ではなく楷書。丸文字ふうの字体である。

それを見ながら、先ほどのエッセイに戻ると、「自分は見かけによらず大きな字を書くのだ」とある。
たしかに、原稿用紙のマス目いっぱいに書かれている。特に漢字。

大きな字で書くということは、字のごまかしがきかないということだ。
例えば「驟」なんて字も、楷書だから線の一本一本がくっきり見えてしまう。で、吉行さんは、くっきり、正確に書かれているのだ。
あえて、そのスタイルを採っているということは、常に「明晰さ」を念頭においていた作家ならではといえないだろうか。

また吉行さんは、「字は遺伝するのではないか」とも書かれている。
父上(作家の吉行エイスケ氏)がどんな字であったかは書かれていないけれど、家族には絶対、原稿を見せなかったのに、妹の詩人、吉行理恵さんの原稿の字が自分とそっくりだったのだという。
マス目いっぱいの大きな字…。

「もし」といっても仕方がないけれど、今、吉行さんが現役バリバリでパソコンに向かっておられたら、と想像してみる。

しかしながら想像の中でのその姿は、タイプライターに向かうアメリカの作家のようだ。
くわえ煙草で、首を少し傾げているのだ。
文字面に酔うことを拒否する眼で。



2006年09月14日(木) 容量

長い小説に取りかかっていて、ネットと少し距離ができた。
今まではこんなことはなかったのだけれど、集中する時間が長くて他のことに手が回らない。

それと今、やったことがないことをしている。やったことのない創作に関しての自習。ある方のアドヴァイスに乗ったのだ。
学校にいたときよりも集中しているし、学校でついぞやらなかったことをしている。
どんな形にせよ作品に反映はあるとおもう。

こんなに響いてくるのなら、もっとはやくやれば良かったとおもうけれど、やれるタイミングが、たぶん今しかなかっんだろうとおもう。

自分の容量からあふれ出すほどに書いていきたい。



2006年09月12日(火) 縦書き横書き

原稿用紙に万年筆で字を埋めていると、パソコンで字を打ち込んでいるときと、思考回路が違うんじゃないかと思うときがある。
最終的には同じ字を選んでいたとしても、そこに至る道筋が違うと感じる。

たぶん眼と指の神経と筋肉の使われかたが違うからだろうし、「書く」という行為だけが使う脳の領域が確かに「ある」と感じるのだ。
一方、パソコンは感じて、即、打つことができる。

それ以上に大きく感じているのが「縦書き」と「横書き」の違いだ。
縦書きになれてくると、段落、行替え、一文の長さまで「横書き」の時と変わる。
石川九楊氏がおっしゃるように、日本語は縦に流れる「つくり」を持っているから、縦ばかりで書いていると「そういう字」になってくる。文のリズムもそれにあってくる。
ところがそれを横書きの印字にすると、途端に別のモノに見えてしまう。
あまりに「居心地」が悪いときは横書き用に文章を直したりもする。

どちらがいいのかわからないけれど、縦を横に、あるいは横を縦にすることで見えてくるモノがある。互いの「隙」のようなものだけれど、いい言葉が思い浮かばない。

メルマガ「京都余情」の原稿も、パソコンで直接入力していたけれど、次回は原稿用紙に一度書いてから入力してみることにした。はたして文章が変わるだろうか。
ちなみに、この日記も原稿用紙に書いています。



2006年09月10日(日) 「死顔」吉村昭 を読んで


 吉村昭さんの遺作「死顔」(「新潮」10月号)を読んだ。
作品は危篤状態の吉村さんの次兄様の容態の変化を中心に、親族の様子とご自身の気持ちを時間を辿りながら追っていく。かつてのお父様、ご兄弟の最期の姿もオーバーラップして描かれていく。

 そして死は訪れる。その死に臨み、吉村さんは柩の中の「死顔」を見ようとしないことを旨としていた。いつの頃からか半ば「仕来り」のように行われている、一般会葬者を含めた柩を囲んでの「最期のお別れ」に否定的なのである。

…柩の中の死者は多かれ少なかれ病み衰えていて、それを眼にするのは礼を失している…(同書より)

 ごく限られた血縁のみにすべきだという主張は、ご自身の血縁の死を語られた後の言葉だけに、説得力があった。思うに、死者を尊ぶ気持ちをどう持つかなのだろうけれど。

 この作品が書かれた時点で吉村さんは自らの最期のありようを決めておられたのだと理解した。僕にとってこの作品は、近しい人の死を見つめながら、自らの最期について決意を静かに深めていくものとして読めたからだ。
 
 幕末の蘭方医、佐藤泰然の例を引きながら
…いたずらに命をながらえて周囲の者ひいては社会に負担をかけぬよう…(同書より)
 同様のことを遺書にも記した、とある。
また、
…泰然の死は、医学者故に許される一種の自殺といえるが、賢明な自然死であることに変わりはない…(同書より) とも。

 我々の誰もが老いと死について考えさせられるだろうし、必ず考えるときが来る。
 読み終えて小さく「そうか」と思わず呟いていた。

ご冥福をお祈りします。



2006年09月09日(土) 郊外

「新潮」10月号を読みはじめる。
吉村昭さんの遺作となった「死顔」から。
最近経験したぼくの状況を、どうしても重ねて読んでしまう。
吉村さんの「自裁」ともとれる亡くなりかたも、無論だが。

島田雅彦さんと青山真治さんの対談にも興味がある。
高村薫さんの連載も始まった。

「新潮」は今月から定期購読。

読みながら郊外の病院を思い出していた。



2006年09月07日(木) 人は「生きて」いる

メルマガ「京都余情」の取材であちこちに移動した。
時間がふんだんにあるわけではないのでピンポイントである。
一目散に行って、一目散に帰ってくる。

そんなあわただしい取材の中でも、驚かされることがある。
今日は人の繋がりに驚かされた。

場所とモノは動かない。人は動く。生きているから外見も心も変わっていく。それをアタマから固定してかかると、ずいぶん世界が狭くなる。
理解できることも少なくなるだろう。
生きているモノは変化する。だから振り回されて苦労もするし、思いがけない喜びに遭遇したりもする。だからおもしろい。
まして誰と誰が繋がっているなんて、想像もできないほどだ。

人と人の関係の中で、一方が一方をアタマの中で勝手に規定し、さらに固定してしまうと、そうでない相手が想像できなくなる。
酷いときは許せなくなる。
そうなってしまっては関係の成熟どころか、そもそも会話のための言葉も不要になるだろう。
「言葉」を失ってしまうと、生きることが辛くなる。

自分の都合だけで世界を回そうとするなら、周りの人は「死んでいなくては」ならない。
世界の中心に一人でいたいのなら。
それは精神の危機だ。

しかし、世界は「生きている」のでその目論見は必ず失敗する。生きている人は必ず繋がっていくから。

他者を本当に「生きもの」としてみているかどうか、だ。
人の関係の不思議さから、そんなことを考えていた。




2006年09月06日(水) 原稿用紙

何でも全て原稿用紙に書きなさい、と教えてくださったのは仕事の先輩、Yさんだった。その頃、仕事でも様々な記事や原稿は原稿用紙に書いていた。
しかし、Yさんが言っていたのは、「メモ書きから日記に至るまで全て原稿用紙に書きなさい」ということだった。正直言って、そんなことはできなかったし、できるとも思わなかった。
だいいちレジュメにしてもレポートにしても、ワープロかパソコンで打ち出していたし、スピードの点で原稿用紙からいちいち移し替えるのは手間だったのだ。
だから、その「教え」はとうとう守られることはなかった。

そのうちにパソコン一色の時代になり、そもそも手で書くことが減っていった。その制作スピード、保存収納の合理性と確実さは圧倒的だったから。

ずっと書いていた詩だって、パソコンにどんどん移し替えていったし、パソコン上で詩を書くようになっていったのだった。

ところが最近、意識して手書きをしている。このことは一度日記でも書いたけれど、さらに意識して増やしている。
原因はパソコンよりも原稿用紙の方が原稿全体の見晴らしがいいからだ。再読もスムーズにできる。考えながら書く作業がパソコン画面よりも原稿用紙の方が自分にはよいようなのだ。最後はパソコンに載せるけれど。

そういう作業を、実はノートに書いてからパソコンでまとめたりしていたのだけれど、ノートよりも原稿用紙をよく使うようになり、今ではA4、B4両サイズの原稿用紙のストックがノートより多い。

そうやって書いているうちに、万年筆にはまった。ほとんど水性ボールペンで書いてきたのだけれど、ある方からプレゼントされた万年筆が抜群の書き味で、いつまで書いていても飽きない。
それと自分の字が嫌いでしょうがなかったのだけれど、実は万年筆で書くと悪字が目立たない。勢いで滑らせて書いていくとそれなりに収まってしまうのだ。そのことが手書きをさらに後押しすることになった。

最近、いったい何枚書いたかわからないくらい書いている。
それこそメモからプランニング、詩や小説まで。それに自分の作品だけではない。「書き写し」も実行中だからである。

その「書き写し」にはまってしまった。
「習字感覚」というのもある。それと書いていてわかったのだけれど、自分は書くことで「精読」するという、面倒くさいタイプの人間だったということ。好きな本でも二度、三度読んでくると惰性に流れたり、時としてしんどくなるけれど、好きな本を書くのだったらいつまででも書いていられる。
それに原稿用紙だと流すことができない。だから思いもかけない読み落としを発見したりもする。それはいいことだと思っている。

Yさんが言いたかったことは、もっとマス目になれろ、文章の量を「肉体」に覚え込ませろということだったのだと思う。
あの言葉を聞いて、もう何年たっているだろう。
忘れないでいた自分と、それでもやろうとしなかった自分がいて、その二つの自分を抱える自分を見つめる自分がいる。

少しは大人になったのか、と思う。






2006年09月05日(火) おや、涼しいね。

秋の空気が流れ込んだようで、とても涼しい。
メルマガの取材を続け、執筆も進んだ。

今、別の人間のための病院がよいが続いている。
もうこれは仕方がない。
とりあえず今週日曜日まで、毎日身の回りの世話が続く。

病院にいて新聞を読みながら考えた。
もうすぐ行われる医療制度改革なるものは、完全に弱者の負担増になることが明白だということ。
病院に通わずに亡くなっていく人が増えるような気がする。

これからの最大の弱者=老人に、あまりに冷たくはないか。
弱いものを容赦なく切り捨てていく社会になっていきそうだ。
それで平然としている人だって、いつ弱者になるかわからないのに。



2006年09月04日(月) まだまだ暑い

朝晩はずいぶん過ごしやすくなったけれど、日中は暑い。
極小家庭菜園ではナスと青唐がまだ実をつけている。今年のトマトはさんざんだった。大失敗。来年は品種を変えよう。
大葉とバジルはまあまあ。ずいぶん虫にやられたけれど。

今日はネットである映像を発見。
”youtube”ってサイトはもう大分知られてると思うけど、ここはほんとにレアな映像の宝庫だ。

1990年代の陳信輝のギターを聴いた。
マー坊、ジョニー、チー坊、シンキ…。
バリバリのヨコハマ。
メンバーの中にジョニー、ルイス&シンキが加わっていたわけで、クレジットもそうなってた。

それにしてもマー坊、かっこいいね。髪の短いシンキ氏がギターを弾いているのは初めて見た。



2006年09月02日(土) 「人称」のこと

小説をいくつか読んで、「人称」で内容ががらりと変わることを考えていた。
昨日書いた多和田さんの作品は一人称だった。小池昌代さんの「タタド」は三人称だった。どちらがいいとは言えないけれど
この二つの作品は人称を変えて書かれたら、ずいぶん変わるだろうな、と思った。

長嶋有さんは男性だけど女性の一人称でも書く。村山由佳さんは女性だけれど男性の一人称でも書く。
村上春樹さんは一つの作品の中で人称を変えることがある。大江健三郎さんにも女性の人称で書かれたものがある。

たぶん作者にとってその人称でなければ書き得ない作品なのだろう。
それは読者の感覚と必ずしも一致はしない。
三人称で書かれた物語を「人ごとみたいだな」と感じると、いっぺんに白々しくなってしまう。
また一人称で書かれたものに過剰な思いこみを感じると、辛くなる。

「どこから見ているのか」
そのことを考えていた。



2006年09月01日(金) 「レシート」多和田葉子 を読んで

多和田葉子さんの短編「レシート」を読んだ。(「新潮」9月号)

飛行機事故のショックで自らに関しての記憶を失った主人公が言葉によって「生きる力」を導き出すまでが書かれていた、と思う。

記憶を失った側からの視点で物語は進んでいく。
(主人公の女性が失ったものは自分自身の「名前」を筆頭とした自分に関する属性すべてであって、それ以外の事象は理解できるし、記憶もしている。)

持ち物は何もなく、レシートの一束だけが残されていて、それを読みながら自分への「手がかり」を探ろうとするのだが、主人公は「レシートに主語はない」(つまり誰だかわからない)という結論に行き着く。

レシートの解読場面がおもしろい。
しかしレシートに印刷されているのは、購入金額、時刻、商品名だけで、彼女のみならず、人は皆ひょっとしたらそれが「全て」なのではとふと考えさせられた。

何故なら医師とその甥や姪とのカウンセリングのような会話を通じて、「世界」にとって主人公の彼女が彼女でなくてもいっこうにかまわない、ということが露わになっていくからだ。

そして「記憶と名前を持った側」が「新しい記憶と名前」を彼女に与えようとするたびに、「無い側」の彼女によってそれが滑稽な欺瞞として鮮やかに浮き彫りにされてしまうのだった。

彼女は攻勢に転じていく。どうするかというとレシートを笑いのめすのだ。(漫才によって!!!)
物語のエンディングに近く、うねるような言葉の連射(漫才!!)は多和田葉子の世界。ぷぷぷ、と時々笑いながらも感心してしまった。
自分を取り巻く欺瞞を、自らの言葉で笑いのめしていく小気味よさがある。

多和田さんの他の著作でも感じたことだけど、生きていくために「自分の言葉」を持つことの大切さを今回も感じた。
『キックアウト「筋書き」』なのだ。

印象的なディテールの記述はこの作品でも相変わらず鮮やかだった。


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