今日はほとんど真夏日。用事で松尾大社へ。近所の某末社にも久しぶりにいけました。
さて毎日一緒に散歩しているハナが脚を負傷。ちょっとぐねったみたいなんです。その場所がジャンがけがをしたのと同じ場所!!
それほど酷くはないようなので、少し安心。 いつもの事ながらずっと横についていようと思います。
一日中、U2を聴いていました。 エッジのギターがぐんぐんリードしていく作品群は特に好きです。 去年出たアルバム、「核爆弾の解体方法」(直訳すればそうなる)も素晴らしいけれど、アルバムとしては「ヨシュア・トゥリー」と「焔」が好きです。 ロックはあんまり聴かないけれど、U2は今のところ数少ない別格のひとつ。
それと映画「ミリオンダラー・ホテル」のサントラはU2のほかにも、ジョン・ハッセルが入っているから、なかなかのものです。
ブログについて、またしても考え込むような事態が。 アマチュアのモノカキが「日記文学」だけに収束されていく事への反発と、「日記文学」故の可能性とのジレンマに悩んでいます。
基本的には複数の出力ポジションを見据えつつ、自分のスタンスは変えずに行きたい、と思っています。
そうそう、本屋さんに預けていた「光函」が連日、売れています。 ご近所ではなく、ネットを見ている某大学生かも、とのこと。
コンペに比重をかけつつ、自前で出すことも視野に入れていかねばと思っています。
作品第一です。
夏日。 昨日まで日向ぼっこをしていた野良猫がみな、日陰に避難。
文庫本主義者が庄野潤三さんの文庫本で手に入るものを、すべて注文したというのです。 おおお!!。 すでに四冊読破…。
窓辺のキッチンガーデンのハーブのなかでタイムが花を咲かせました。
それにしても暑い一日でした。
強い南風。 明日は夏を通り越して、真夏日になるかもしれない、と天気予報がいっていた。 薔薇の開花がぐっと進むと思う。
山下洋輔「KIZASHI `04」を何度も聴く。 特に「Memories」「Spiritual Nature」の二曲。 作曲はもちろん富樫雅彦。
音は少なく、語りかけてくるような、胸にしみいるメロディーを持ったバラード。 アグレッシヴでアヴァンギャルドな山下洋輔とは違う。
ネオブックから昨年一年間の印税の通知が来る。 僅かな額だけれど生まれて初めての印税収入。あらためて読者を思い、感謝。
夕方、詩を投稿。
2005年04月26日(火) |
晴のち雷雨、再び晴れ |
朝から素晴らしい天気に恵まれた。 お昼過ぎにOne Fine Dayのメモを書いて、画像を撮影した直後から、にわかに曇り激しい雨が降った。風が渦を巻き、 枇杷の新しい葉や、クスノキの古い葉が宙を舞った。 雹が降ったところもあるという。
二時間後、空は嘘のように晴れ渡った。気温は一気に低下。 ひんやりと爽やかな空気が気持ちよかった。
日野啓三さんの短編集への簡単な感想を書く。
詩をもう一度見直す。六度目。 足すところはないのか。これで本当に伝えたいことはすべてなのか じっと原稿を見る。
視点を変えてもう一つ書く。
最近出た本で、永井荷風の腕には愛した女性の名前の刺青があったという。 庄野さんの作品世界に触れる前は、 永井荷風的な生涯の閉じ方を覚悟していた。 孤独死。
人生経験と音楽体験。読書の経験は、それでも人生を豊にしてくれている。 ありがたい。
2005年04月25日(月) |
快晴のち曇り JR脱線事故 ジョビン 示現 |
朝から快晴。気温も高く、久しぶりに寒くない朝だった。
午前中、尼崎でJRの脱線事故。速度を出しすぎたぐらいで脱線するはずがないな、と思っていたら 某民放で鉄道評論家が、電車の台車の脆弱さが原因だとすぐに断定していた。
それほどいわくつきの台車なんだそうだ。東京の営団地下鉄日比谷線の脱線事故の時も同じ台車で、いつかこういうことが起きると囁かれていたという。
つまり軽量で速度が出やすいのだろう。強度の基準とかはどうなっていたんだろうか。 並行して阪急電車宝塚線が走っているけれど、阪急電車では恐ろしくて使えない、と関係者が語っていたという。
とまれ事故原因の究明が待たれる。
ここのところ聴くものの主流はクラシックとボサノヴァになっている。 むろん本筋はジャズだけれど、それ以外の日本のミュージシャンも聴いている。今聴きたいのはnanacoさん。新作がでている。
アントニオ・カルロス・ジョビンが流れていて、読んでいるのは日野啓三さんの「示現」。実に示唆にとんでいる。
昼から曇りだした。 フィリピン沖に台風三号。 ベゴニアを購入。「天使形」のもとになった植物である。かなりの変わり種を手に入れた。
2005年04月24日(日) |
快晴 ジョアン・ジルベルト 伊東静雄 |
朝の5時は寒い。昼との気温差が15℃はある。 盆地やからねえ。
京都市内の桜は散っているけれど、丹波の方では今が見頃。 常照皇寺の桜は凄いだろうなあ。 快晴。黒松の梢は金茶色。
ジョアン・ジルベルトを聴きながら、精神状態を整えて 詩をまとめる。投稿。
伊東静雄の「子規の俳論」が面白くて何度も読む。 それとは別に「古典と海外」。
本屋さんから「光函」が売れたとよお、と通知がくる。 ありがたいです。
UAの新作「Breathe」を試聴した。 前作の「SUN」が強烈な印象を残しているので、新作を聴く前にそちらを咀嚼しきってしまいたいという気分がある。だからまだ購入していない。
「SUN」で彼女は大きく変わった。たぶん現在の日本ジャズシーンの先端の(と、ぼくが思う)人たちとのコラボレーションとも言うべき作業は 感情や言葉の、「芯から」と感じた振動が神経に絡みつくように伝わってきた。
心配なのは純粋な自発性をあまりに追うと、妙な隘路にはまりはしないか、という点。文字通り身動きがとれなくなるという点で。
新しいアルバムのために用意されたページに行っては、インタヴューを読んだり試聴を繰り返している。
ソローや山尾三省の名がでてくる。たしかにそれはぼくも親しく感じている作家、詩人だけれど、それだけ余計に心配になる。
音はユニークの一言に尽きる。とてもおもしろい。問題は歌詞。 それは少なくとも詩を書く人間としていかに対峙するかということでもある。 批判的に摂取するために。 今のところ、上記の「心配」は杞憂に終わりそうだけれど。
だから、という訳じゃないけれど 伊東静雄の子規論を読む。「子規の俳論」と題された論文は、彼の京大文学部での卒論である。現代詩文庫の彼の巻に記載されている。 漱石から子規、庄野潤三から伊東静雄という興味の「系」で読み出した。
正岡子規からの影響が伊東静雄に。伊東静雄の影響が庄野潤三に現れている。 読み取りたいのはもちろん「写生」について。 実に興味深い。
それから詩の全面書き直し。 とにかく「主観」のありようの問題なのだ。 四回目の書き直し。
子規の論にならっての書き直しも試行した。 とにかく精進しなければあかんのです。
婦人公論の発売日。 今回は選外。
短編にスタンスを置きすぎかな、というのはいいわけ。 詩的な衝動の言語化ができていないということ。 やはりぼくの場合は身を削らないといいものはできません。
今回の井坂さんの選評にはいろいろと細かなアドバイスがありましたが 表現に魅力がなければどうしようもない、ということです。
直感と閃き、うーん。 前回の入選で少しぼーっとしたのかな。 書くことは続いているけれど、もうひとつ、だったのだと思います。 もう少し体制を整えます。
嬉かったのは投稿仲間の名前を発見したこと。 お互い入選を目指してかんばろう、と投稿を続けてきているので 名前を見ると、わがことのように嬉しいです。
「仲間」もなんども入選や佳作は果たしているんですよ。 いい刺激になりました。
わが愛犬ハナとは別に、久しぶりに単独で散歩をした。
歩いたのは竜安寺の周辺。御室桜と山桜が満開。途中、修道院に向かう坂でも八重桜を愛でる。
やはり気になるのは植物。椿は満開。薔薇を植えているお宅はどこも蕾ができていた。
何度も書き直している詩を引っ張り出す。どうしてもまとまらない。何度も推敲。 完成形にだいぶ近づく。
ふと思い立ってU2を聴く。エッジのギターは時々、無性に聴きたくなる。 遙かな高度を行く風のような…。
日野啓三、庄野潤三、町田康、それぞれ読み継ぐ。 短編を考える。
春の風 微熱の雲に 衣掛け
雪柳 雪崩れたままの 逢瀬かな
「ソローと漱石の森」稲本正・著、読了。 「環境文学」という切り口は今でも魅力的だけれど、実践の中でどう果たされていくのかは常に切実な課題としてあるなあ、という感想を持ちました。
自然の中に出ていくか、個人の内面の森に没入していくかという点や、風景と人がどう切り結ぶのか、という点を自分なりに追求したいと思います。
作品中、「文学・環境学会」での故・日野啓三さんの発言が紹介されています。その「森と文学のアナロジー」が示唆にとんでいたように思います。
また、稲本さんの、たぶん専門的な見地からはかなり強引と思われるかもしれない、量子力学と漱石の作品とのアナロジーは、 「文学的には」とても面白い指摘だと感じました。 個は「揺れ」であり「霧や雲のような分析不可能なものである」というとらえ方。
その見地から読み解ける作品として考えられ作家として、すぐに思い浮かんだのは吉行淳之介さんと日野啓三さんです。
で、日野啓三さんの「あの夕陽」読了。芥川賞を受賞した短編です。 主人公の離婚が描かれています。 「個」の揺れがまざまざと描かれていました。移りゆく夕陽の描写に被さる心理描写は精緻で見事でした。 時間のスパンは一日の出来事なのだけれど、そこにたたみ込まれた時間は戦時下、終戦直後も含まれているし、 地理的な描写は韓国、東京を含んでいます。
とまれ、個の心を追求して、こうだ、と簡単に割り切れるはずもなく、人間のありようも量子力学的であるという指摘も成立するでしょう。
午後、「告白」町田康・著を読み継ぐ。 これもまさに殺人を犯した「個」を追求しています。長編ですが、文の呼吸が河内弁なので、意外に読むのが早く進みます。 関西圏の人はすらすら読めてしまうかもしれません。 河内弁になじみのない人は少し読みにくいかも。
最後に日野啓三さんの「示現」を読みかけて、明日に続きます。
漱石もそうですけれど、読書を通じて浮かんできたキーワード、「再生」をどう書くのかが課題です。 しばらく考えながら自分の作品にも反映させていきます。
薔薇の蕾がだいぶ大きくなってきました。 今年植えた柚子と山椒。ようやく新芽が吹き出し、一安心です。
季節の花はそろそろツツジへ。ニュースでは東京の満開のツツジが紹介されていました。京都は綻びはじめたところです。 桜の葉がでだすと、他の木の新緑も気になり出します。落葉樹の新しい葉がどんどんと大きくなっています。
「風が薫る」まであと一ヶ月ぐらいでしょうか。 東からのぬるい風と霞のかかった半月。明日は雨のようです。
読書は漱石。音楽はバッハ。詩と短編の構想を練っていますが、短編は書きながら考える方法で書こうかと思っています。
詩は「ひとつきふたつき」をアップしました。
夏目漱石関連の本を読んでいます。 もちろん漱石全集の再読も。
偶然、御池大橋西詰めに夏目漱石の句碑を発見してから、心が動きました。 「女性」という観点をもう一度踏まえて読み直してみようと。 漱石の重要な作品にはたいてい「鍵の存在」として女性が登場しますから。
それとは別に初めて筆写をしてみようと思います。詩をまるまる写すことはありますが、小説は初めて。 まず短編から。
もう一つ。今回読み直していて、漱石の風景や植物への目線がとても新鮮に思えました。ここまで自然を活写している現代の作家はいるでしょうか。 と、いうよりもすでにそんな環境が存在していないのか…。
いやそんなことはない。都市を見事に描写していた日野啓三さんがいるじゃないか。と、故人の短編集を引っ張り出し、読み耽っています。
町田康「告白」もあり、周囲は本ばかり。詩もまとめなければ。
音楽はクラシックに復帰。ずっとピアノ主体で集めていますが、オーボエの優れた盤を探しています。 武満徹さんのものも全集以外でこつこつそろえています。映画音楽も気に入ってます。
武満さんといえば、NHK−Hi−Visionで「ファミリィー・トゥリー」の特集を見たのですが、夫人によれば武満さんは亡くなる二日前にバッハの「マタイ受難曲」を全曲聴いておられてたんですね。 思わず「ああ」と声が出ました。 クラシック以外では大貫さんを聴いています。
2005年04月16日(土) |
桜散る頃 高田渡さん逝く |
詩人・歌い手の高田渡さんが亡くなりました。享年56歳。
60年代末から70年代初頭の関西フォークの真ん中にいた人でした。 当時は京都に住んでおられました。
高校生の頃、彼のライヴやレコードから教えてもらったことはとても新鮮でした。 一つはアメリカのフォーク・ブルースのスタイル。もう一つは山之口貘さんという詩人の存在。 そして彼の詩、歌ですね。
ぼくが彼の歌で一番好きなのは「自転車に乗って」と「コーヒーブルース」でした。
「コーヒーブルース」の次の一節は散歩や自転車に乗っているとき、よく歌いましたよ。呟く感じで。
♪三条へいかなくちゃ 三条堺町のイノダって云うコーヒー屋へね あの娘に会いに なに好きなコーヒーを少しばかり♪
三条堺町のイノダというコーヒーショップ、今でも健在です。 初めていったのは十代の終わり頃でした。
飄々と、淡々と、何におもねることもなく…。
たくさんの思い出をありがとう。
合掌。
今日からTBSでドラマ「タイガー&ドラゴン」が再演されます。 脚本がクドカンで主演がTOKIOの長瀬君。 実は文庫本主義者がTOKIOのファンなので、このドラマのことは聴いていたんです。 ぼくは主題歌からこのドラマは知ってました。
主題歌はわれらがクレイジーケンバンドです。
♪俺の話を聞けええー五分だけでもいい…、
この歌、好きです。
シンプルでレトロなR&Bとロックンロール。 それにしてもカップリングされてる曲は最初のあたりはどう聞いてもタイガースのシーサイドパウンドなんやけどね。 らしいなあ。 しかも本家よりずっといい。
この「タイガー&ドラゴン」。和田アキ子ヴァージョンもあるようです。 ぬかりないね。
♪俺の、俺の、俺の話を聞けええー 2分だけでもいい
はあっ!!
2005年04月14日(木) |
お多佳さん、サウドスエで手紙をお書きなさい |
今日は夏目漱石全集(岩波書店)の書簡集を集めた巻をひろげて、ある方の名前を探していました。 その方は幾田多佳さん(たいていのデータベースでは幾田多佳女となっています)。
(漱石が「お多佳さん」とよんでいるのにならって、以下「お多佳さん」と書きます。)
お多佳さんは祇園では「文学芸妓」として名を知られた方です。 戦時中に亡くなりました。彼女が女将として活躍していたお茶屋「大友」は一種の文芸サロンのようになっていて、鷗外や漱石もよく足を運んだそうです。祇園で有名な歌人、吉井勇ももちろん。 現在、「大友」のあったところには吉井の歌碑があります。
かにかくに 祇園は恋し 寝るときも 枕の下を 水の流るる
戦時中の強制疎開で取り壊しになったのですね。現在の石畳が敷き詰められた白川南通りにあったのです。
さて、舞台は祇園ではなく、鴨川を渡ります。 1915年に四度目の京都訪問を果たした漱石は、その遊行途上で腹痛を起こし、寝込んでしまうのです。泊まっていたのが鴨川の東側、木屋町三条を上がったところの旅館。 そこで漱石を看病したのが、お多佳さんだったのですね。
漱石はお多佳さんに句を贈ります。
春の川を隔てゝ 男女哉
この句碑が現在、御池大橋西詰めにあるのですが、これ、いい句だなあ、と思い、(「川」がいいなあ)ふと、あ、手紙、と思ったわけです。
ありました。 それがまた漱石らしい、おもしろい手紙なんです。 看病の礼を述べたあとで 北野の天神さんへ行く約束を破って宇治へ遊びに行ったお多佳さんに、嘘をついちゃあいけない、と怒るんです。
あなたは根のところが善良だから、あなたが嘘をついたということを撤回しない、とか。あなたに冷淡になりたくないから云々。
漱石が書いた手紙だけが残っていて、お多佳さんがなんと返事されたのかはわかりません。 …ほんにかなわんおかたやわ…と思っていたのやもしれませんけれど。
手紙から感じるのは漱石が一生懸命だということです。 それと興味深いのは、漱石がお多佳さんの手紙の書き方に注文をつける下り。
明治時代の芸妓さんならば、たぶん「候文」の心得はあったはずですし、書も習うのでしょう。漱石の手紙の原文は次のとおりです。
…君の字はよみにくくて困る。それに候文でいやに堅苦しくて変てこだ。御君さんや金ちゃんのは言文一致だから大変心持よくよめます。 御多佳さんも是からサウドスエで手紙を御書きなさい。…
漱石の文章に「言文一致」という言葉が現れると、にわかに緊張します。 言ってることと書いてることの乖離、言葉と行動の不一致を乗り越えるべくひねり出された「言文一致」を、漱石もになっていたんだというリアルさが伝わってきます。
だけどその明治の言文一致の文学でさえ、今の時代では古典だ、と。 (これはたしか養老孟司さんが「バカの壁」の執筆に関して発言されていたことだと思います。)
じゃあ現代の言葉はどうでしょう。 作家それぞれの文体はあります。だけど「言文」を「思想と行動」にまで広げて考えると、必ずしもすべての作家が言文一致とは言えないんじゃないでしょうか。 スタイルとして旧仮名遣いを選ぶ人もいますから。
とまれ、漱石が病に伏していた旅館は、たぶん平野啓一郎さんの「高瀬川」の舞台になったホテルのすぐ近所です。 そして言文一致の新たな試みともとれるのが町田康さんの「告白」。全編、河内弁が登場します。 その地を知るものとして、もの凄くリアルに響いてきます。
● 「漱石全集」・岩波書店 第15巻 続書簡集
木の増殖には苗木が不可欠です。 一本、一本の杉を手で植えた経験がぼくにはあります。 苗木を作るいろんな方法も知りました。
苗木を作る方法を大きくわけると、実生、挿し木、接ぎ木になるのではないでしょうか。 実は植林の多くは挿し木から苗を作ります。また薔薇の苗の多くは接ぎ木から作られます。柑橘系の木も接ぎ木が多いですね。
ホームセンターや園芸店に出てくる苗も接ぎ木のものが多く。実がなったり、花が咲いたりという結果が実生に比べて早く得られます。
京都の山に入れば、川端康成の小説でも有名な「北山杉」がまるで自然の格子戸のようにまっすぐで細い美しい樹影を見せてくれますが、 あれはほとんど挿し木によってできた林です。
挿し木、あるいは挿し穂ともいいますが、形のよい木の枝を切り、一定の長さの穂にして、小川に水の堰をつくりそこに浸けておくのです。 根が出たら、それを畑に植え、そこでしばらくすると立派な苗木ができるのです。 言ってみればクローンを作っているわけです。
もちろん、林業家の方針として実から育てるところもあります。花はやがて実となり地上に落下。そして芽吹いて…となるのですが、挿し木に比べてものすごく時間がかかるんですね。手間もかかります。
日本中で杉花粉が飛び迷惑がられる杉ですが、自然本来の姿は実生です。 実生のものの方が強い、と街の園芸家はよくいいますが、本当のところはどうなのかわかりません。
花にしても、ハーブにしても街の園芸家達は、ある程度のレベルになると種を収穫し、苗からではなく種から育てるようになるようですね。その方が面白いと言う方が周囲には多いです。
薔薇でもローズヒップができるものとできないものがあります。うちでは実になる前に花が咲きかけたら一輪挿しにしているので、どれがどうなのか試していません。 実をつけるということは植物にとっても一大事業で、かなり消耗するんですよね。それで枯れてしまうのも怖いですし。 しかしながら、薔薇の場合、原種に近い、種の獲れるものを残すというのがとても大切な課題になっています。
さて、うちには食べた実についていた種から育てたレモンがあります。もう5年はたっていると思います。 これが花は咲かないし、もちろん実もとれません。 実生ですからね。時間はかかるんだろうなと思っていました。
庄野潤三さんの「せきれい」には実生の苗で育った柚子が植えてからなんと25年目で実をつけたお話が出てきます。 25年!!!! だから営林とか果樹栽培とかだと待ってられませんよね。 たぶんうちのレモンも相当時間がかかるでしょう。生きてる間に花がみられるでしょうか。 ほんとうにそれほどの時間のスパンなんですね。
ちなみに今年植えた柚子の木は二本とも接ぎ木です。 近所の山桜はみな実を結びます。その話を書き始めました。
雨が降り続けています。 雨の音に耳をすませていると 心が安静になっていきます。 それなら、雨が降らない日の心とは。 …「色」が違うんですね。
庄野潤三さんの「せきれい」を再読しています。 細かい時間に読むために吉行淳之介さんの「贋食物誌」を机に置いて時々開いています。思わず唸ること暫し。
夜になって冷え込んできました。 明日の朝は7℃だとか。
今日は「ディーリアスを聴く」をアップしました。 それと「猫の影 7」もアップ。
「温かい雨」の桜版を考え中です。
中国の反日デモ。公正な報道という点ではイギリス・タイムズ紙の報道に勇気をもらった気がしています。 このニュースの前後からよく聴いているのがAJICOの「金の泥」。この歌はシングルとAJICO SHOWという最後のライヴに入っています。 例によって確認してませんが。
「いつまでも 続かないよ こんな大きな嘘は」とUAは歌うのです。 ぼくは隠れた名曲だと思ってます。ぼくが持っているのは「波動」のシングル・ヴァージョンのほうです。これにカップリングされてます。
今日は一日、天気はよかったのですが風が強く、桜がだいぶ揺さぶられていました。まだ五分程度ですからそれほど散ってはいません。 木蓮はだいぶ散りました。
今日は「猫の影 6」を書きながら、みんな生まれながら「悲しみ」を背負っているんじゃないのかな、と思いました。
そういえば釈尊が苦しみの中に「生」をいれていますね。
もっと本を読みたいです。
音楽はOne Fine Day、大貫妙子さん。 サイトのBBSで話題になりました。
最近手に入れた宝物の一つです。ピアノにフェビアン・レザ・パネさんが参加している楽曲と山弦さんの参加されている楽曲が特に好きです。 あ、ほとんど全部ですね。
パネさんのピアノは以前からずっと聴いています。
ついこないだまで寒い寒いと言っていたのが嘘のように、暖かな日でした。 というよりも汗ばむぐらいでした。 さすがに夜になるとトレーナーを着るけれど、夕方、ぼくはTシャツで過ごしてました。
今日は京都市美術館別館に日本画家の「グループ尖」の展覧会に行ってきました。「光函」の表紙絵を描いてくださった竹林柚宇子さんの所属するグループです。竹林さんの絵ももちろんありました。 詳しくは「グループ尖展へいく」へ。
それから今、書いている「猫の影」の舞台である松ヶ崎を通って帰ってきました。 「猫の影 5」はこちらです。
いきなり温度があがったぶん、ソメイヨシノの開花の速さも激しいようです。 京都市内は一気に七分に近くに咲きました。来週にはもう散り出すでしょう。山桜や八重桜がこれから咲き始めます。
最近、小学生や中学生が実によく大人の社会を見ているな、と思うときがあります。彼らの判断はほとんど直感か、もしくは何の濁りもないシンプルな因果関係に照らし合わせてのもの。 それは恐ろしい程よく当たっていると思います。ただ本人達のほとんどは自覚的でないから、いつかそんな判断も忘れていくのでしょう。
彼らが直感しているのは、新たな階層社会の到来と固定強化でしょう。そこに自分たちも組み込まれていくという直感。
そういう未来を生き抜くために、ホリエモン流に言えば「狂え」となるのかな。そういうことももうわかっているみたい。 「狂う」とは自分の中に何でもいいからスペシャルを持つ、ということだとぼくは理解しています。 特に若い人には必須だろうな、とも。
ぼくはすでにいい歳だけれど、それはいくつになっても大事なことだとも思います。 昔の人なら「精進しなさい」となるんだけれど、今は「狂え」といわないとニュアンスが伝わらないんだろうな。
で、比喩としての桜と薔薇。 桜は単独の花で見るものではなく、樹全体に咲き誇った姿が美しいもの。 散るときも一斉に散る姿が美しい。
薔薇は、特にハイブリッドとして姿を変えた現在の薔薇は一輪の美しさ。 大きく強い花の。
もしフリーターというのなら、まして詩人などというのなら、せめて一度は咲く薔薇のような人生を意識すべきかも、と思う。 「餌」は喰うし、病気に弱いとこなんて、まったくそうだよ。養生しなきゃ。 と、以上自戒も込めて。
(腐った桜樹というのも酷いけれど)
今日は「猫の影 4」を書きました。
「猫の影」という短い話を書き始めて三回目。二回目の分から全面的に書き直した。ブログならではの芸当。 理由は最初の「もくろみ」が厭になったから。 時々、そういうことがある。
文庫本主義者にざっとしたあらましを伝えると、それは「温かい雨」のシリーズで書いて欲しかったと言われた。
そういえば、ここのところ「温かい雨」と「天使形」が止まっている。 実は応募したコンペにそれぞれの独立した話が形を変えて行っていて、それで気持ちがいったん切れてしまったのだ。
今回のコンペはウェブ上で発表したものでも可だったので。 こちらは6月に審査結果が出る。今のところ二次審査までは通過したとの通知をいただいた。
そうか、「温かい雨」か。そう、まだ二人の話は終わっていない。 文庫本主義者から「桜」を題材に書いて欲しいとのリクエストである。
書いてみる。
あと読書と執筆の時間のメリハリをつけないといけない。これは課題だなあ。睡眠不足厳禁のなかでやらなければ。 主義者は「読書なんて急ぐ必要はない」という。
今日は「猫の影」「2」 と「3」を書き直し&書き継ぎました。
今日の日記は書き直しです。 廃棄したことについてもまたいつか書くこともあるでしょう。
読書と執筆。庄野潤三さんを読み、堀江敏幸さんを読んでいます。途中までの話を前進させました。もう少し続きます。「猫の影 2」です。
音楽はジャズに戻り、リー・モーガンを聴いています。いやあ、いいなあ。
最近、あまり出歩かなかったので桜の開花がずいぶん進んでいることに気がつかなかった。 うちの周りではちらほらと開花が始まったぐらいだけれど、他では結構、開花が進んでいると、近所の人から教えてもらう。
今年はなんだか人の多いところに見に行く気がしなくて、逆に静かな嵯峨野に行った。確かに咲いていた。二分ぐらいかな。
暖かで、静かだった。それが一番よかった。 画像はIn Paradisumにあります。画像をクリックすると大きくなると思います。
なんだかんだといって、ブログへの書き込みを続けています。 やっぱり読んでくれている人たちの数が圧倒的に多いから。 アメブロが一番多くて、次にドリコム。その間にこのエンピツ、という具合です。 今日はアメブロの読者が急に増えていて、少し驚きました。
ところで、心が迷い、身体のタイミングが狂いがちになると庄野潤三さんの小説を読みます。 ボサノヴァと庄野さんがあればなんとかなります。
「せきれい」は文庫本としては最新のもの。ハードカヴァーも、もうすぐ新しいのがでるはずです。
「せきれい」とは庄野さんの奥様が習っている、ピアノの練習曲のタイトルです。ブルグミューラー作曲。
アメブロに「猫の影」 というスケッチを書きました。
薄ら寒い日が続きますが、京都も桜の開花が宣言されました。 平年より9日遅いそうです。
昨日の続きを考えていて、やはりぼくの居場所は文学だと結論づけました。 書くことと読むこと、です。
詩を書いたり、短い小説を書いたりしている時や、静かに本に没頭しているところに、ぼくを生かす道があると思うので。
音楽や絵画も好きですが、自分が表現するのは文学の場です。 詩や小説と言い換えてもいいですが。
ネットにも書いて載せていきます。 紙はその結果、という感覚。
虚実の乖離。だからこそ、です。
山川方夫さんを読んでいます。たぶん明日、村上春樹氏の短編集「象の消滅」が来ると思います。たのしみ。 堀江敏幸さんのセーヌ川の船上生活者の小説が出たので読みたいですね。 今、一番読みたい人の一人です。
新しい詩の骨格ができました。
2005年04月02日(土) |
ネット ケイタイ 文学 |
ブログに作品を書くことについて某氏から忠告を受けた。 「書く必要はない」と。 特に創作に関してはなんにもならない、という。 前提として「本当にプロになるのなら」という断りが前に来る。
ネット「なんか」で遊んでいる場合じゃない、と。 パソコンを使うことはよいけれど、作品を外に出すなとのことだ。
文学に没頭するのならネットとの接続を切るぐらいでなければ駄目だという。その証拠に…と某氏は様々な例を挙げて説明してくれた。
ネットとはいったい何なのか、もう一度、考えたい。 広いように見えて実は「狭い」のかもしれないし。
インターネットとケイタイによる生活の変化は平野啓一郎氏が言うように、100年か200年に一度の大変革だと思う。 世界像が変わった。 だけど逆に囲いこんでいるとも言えるのだ。可視の画面のみの世界だけが世界であるかのように。 そして、いつものことながら「こぼれ続けるもの」はいる。
平野氏は語る。 …今の十代や二十代の多くは、「本当の自分」と「社会的な仮面」という二つの顔を使い分けている。もちろん、どの時代でも人間には二つの顔があって、その間には「最低限の距離」が必要とされていた。ただ、かつては本音の部分を表現するには現実社会に踏みだす必要があったから、虚実の間は割と近かった。それがネット社会の発達で、今は匿名の「自分」が言いたいことを無責任に表現できる。歯止めなく分裂が広がる状況には深い危惧を抱きます。 一年間のフランス滞在中、日本の若者の集団自殺や引きこもりの多さについてよく尋ねられた。日本の中高年の大部分は「だらしないだけ」「甘えている」との認識しかないようだけれど、彼らの将来への失望感の深さは、同世代として、肯定はしないが理解はできる。現代社会の見逃せない矛盾がそこに表れているととらえないと、問題はますます深まっていく。 この十年間で、戦争体験のある世代がかなり減って、一方で排他的ナショナリズムや右傾化が進んだことは、注意したい。 「無知」と批判されて縮こまる理想主義に対し、「脅威には力で対抗すべき」と勇ましい現実主義が幅をきかしているが、そうやって六十年前に起こったことは何なのか。「無知」な世代に伝えるためにも、歴史を反芻しつつ、作家として社会に問いかけ続けたい。…
(京都新聞4月2日朝刊・シリーズ「60年目の肖像」より。日替わりで識者が戦後60年を語っています)
自殺にどんどん不感症になっているような世間は、ある一方では実に簡単に人を殺す社会でもある。
モブ・ノリオ氏は「破壊して何かが生まれる時代はとっくに終わっている」という。 文学は何も変わらないんだろうか。 「何が変わった?」と某氏はいう。 「とにかくあんたが向かうのは原稿用紙だ」と言うのだ。
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